頭カラッポで遊ぶ
頭の中をカラッポにして、なんにも考えず。
ただ座っていたり、散歩したり、風に吹かれたり、木々の合間からチラチラとこぼれる光を見たりする。
そんな遊びをしている。
人間はいつも何かを考えている。
だから、考えてないときの自分、というものにピンとこないことも多い。
けど、なにも考えてなくても、生きてる。
心臓は鼓動をうち続けてるし、呼吸もスーハーし続けてるし、皮膚がかゆかったら「かゆいから掻こう」なんて頭で考える前に手は既にかゆいとこを掻いてる。
歩いたり電車に乗ったり運転したりもできる。
できてる。
勝手に。
でも、それらは考えないとできないと思い込んでる。
考えたからそう行動したのだと思っている。
でも、そんな思考なんかよりずっと身体の方が早い。
それに、今日はあの子に会いたいとか、あれが食べたいとか、あそこに行きたいとか、そういう「~したい」って欲求は、考えに考え抜いて浮かび上がるんじゃなくて、どこからか勝手にやって来る。
考えに考え抜いたとしても、元の元を辿ると説明なんて出来ない「だって、とにかくそうしたいと思ったんだもん!」ってとこに行き着く。
ある人は梅干しが大好き。
ある人は、梅干しなんて大嫌い。
それがどうしてかなんてことも説明することはできない。
ただ、どこからかやってきた、あるいは元から身体に備わっていたとしか思えない好きや嫌いの嗜好がある。
頭をカラッポにしていると、そういうシンプルな欲求と直結することになる。
「コーラが飲みたい!」
→でも太るよな~
→たしかめっちゃ砂糖入ってんだよな~身体に悪いよな~
→でも飲みたいよな~
→どうしよっかな~
→そもそも、なんで飲みたいのかな?甘いものが欲しいなんて、ストレスかな
「でも我慢できないし、飲もう!」
この飲みたい→飲むまでの間に、ぐるぐると理性と知識が飲むべきか飲まざるべきかと格闘するのが思考。
もちろん思考するのって大切だとは思う。
そこから新しい考えや、哲学が生まれることだってあるだろう。今後役に立つことだって考えつくかもしれない。
でも別に大抵のことに関しては、思考ってそんなに働かなくても良くないか?と思うのだ。
どうせ飲むならさっさと飲んだらいいのだし、もし理性が打ち勝って我慢できても、後からもっと飲みたくなるかもしれないし、その時は5本くらい飲まないと気が済まないかもしれない。その思考によって導き出された素晴らしいアイデアも特に無い。
頭をカラッポにする時間をどんどん拡大する。
そうすると、ポコンっとどこからかやってきた閃きや、あるいは身体からやってくる欲求をパッとつかみ、パッと実行しやすくなる。
脳も考えすぎなくて疲れない。
不安だったり悲観な人は考えすぎているのかもしれない。
でも不安だったり悲観的で考えすぎている人から、偉大な心理学や哲学や文学が生まれているということもあるから、否定したいわけじゃない。
でも別にそんな物を生み出したいとは思ってなくて、できれば楽観的にのんびりと過ごしたいなら、頭カラッポにするのがなにより楽な方法だと思う。
いろんな問題や悩みに対してだって、机の上でウンウン唸ってる時より、ぼんやりしてるときに突然いいアイデアが浮かんだりしやすい。
頭カラッポって、余裕をもたせておくこと、だとも思う。
アイデアや閃きを受け取ったり、身体の声を聴く「遊び」を作っておくこと。
「無為自然」という老子の言葉がある。
作為を捨てて、自然に生きる有り様を指す。
生きてると様々なことが起こるけど、何事が起ころうとも最初の障害となるのは己の考えや物の見方からくる作為だ。
それらを一切捨てるなんて聖人にはなれないけど(現代に生きるには作為も必要だし)、なるべくその部分を自由にさせておく、遊ばせておくと自分も周りの物事もスムーズに動くように感じる。
今日も一日、なんにも考えずに田んぼのオタマジャクシを眺めていた。
全然飽きない。
観察して役に立つとか、これを誰かに伝えたいとかも何も考えない。楽しいかどうかもよくわからない。ただ目が離せずひたすら見てしまう。まるで小学生だ。
というか小さい頃って、こうやってただただなんにも考えずに、虫とか土とか葉っぱとか見てさわって遊んでたなって思い出した。
読んでいただきありがとうございます。
祝福アレ♪
P.S.
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明日への活力です😊
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