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胸の中で鳥が鳴く

こないだ森の中で思考を止めてみた。
ぼーっとしてるのとは少し違う。
意識的に頭の中になにもない状態を作った。

帰ったらなに食べようかな、こないだあの人にこんなこと言われたな、そういえば昔も似たようなこと言われたことあるな、帰りの電車は空いてるかな……なんていう、その場その時に必要のないダラダラとした思考を、止める。

心臓に意識を向ける。
暑いから、少しドクドクと強めに鼓動してる。
手先が少しぴりぴりしてる。
首がちょっとかゆい。

そういう感覚だけを感じる。

鼓動が早いけど大丈夫かな、水を飲んだほうがいいかな?とか。
手先がぴりぴりしてるのはなんでかな?とか。
首がかゆいのは虫に刺されたのかな?汗かな?薬塗ったほうがいいかな?

そういう思考がわきそうになったら、ただ心臓の音に意識を向ける。
そこから落ち着くと、森の音が無数に鳴っているのが聴こえてくる。
鳥が、高い木の上で鳴いている。
無心で聞いていると、胸の中で鳥が鳴いているように感じてくる。
遠くの音を波として耳が拾い、身体全部が拾い、外側も内側もふるえて脳で知覚して「鳥の声」として認識するのだから、カラダの内側から声が聞こえるように感じても不思議ではないと思う。
風で気がゆれて葉っぱが擦れてザワザワと鳴る音も、また同じ。
身体の外側からも内側からも聴こえてくる。
そのうち、その音と身体が一つになる。

心臓の音が大きな時は、その音を聞くといいと思った。
鳥が鳴くのは聞いて欲しいからで、飛躍してるかもだが、身体の内側もまた同じなのではという気がした。
皮膚がかゆいときは、その部分が滞ったりしているのでそこに意識を向ける。そして「かゆみ」を全力で感じると、いつの間にか「かゆみ」が無くなり意識が離れていることにフッと気がつく。
普通、痛いとかかゆいとかは不快だからなんとか対処しようとする。
でも、痛いやかゆいを全力で感じるとそれらは消えていく。
人間の感情と似た仕組みだと思う。
泣きたいのを我慢して押し殺すと、それはいつか別の形にゆがんで噴出する。喜びも悲しみも楽しさも怒りも全部一緒だ。
泣きたい時はその時に泣きたいだけ泣くのが一番。そうすると「泣きたい」は昇華されてどこかへ行ってしまう。トイレへ行くのと同じ原理だと思う。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」というが、それは本当らしい。
ただ、必死に鍛えて心を無にすればできるのだ、と捉えると一般人にはハードルが高くどこかの超越した人にしかなし得ないと捉えてしまう。
そうじゃなくて。
火の熱さを嫌がってなんとかしようとするんじゃなくて、火の熱さを思いっきり感じるようにすれば火の熱さがどんどんとマシになってくるようなのだ。

簡単な実験。
氷を手のひらに置く。
冷たい。
その冷たさを全力で感じようとする。
冷たさがどんどんと軽減されていくのを感じる。
(低温火傷しないようにはご注意を)
身体は、そんな風にできているらしい。

ごろりと寝転がる。
身体の内側に意識を向ける。
ふくらはぎがちょっとだるいなぁと感じる。
その「だるさ」を思いっきり感じると、ふっと力が抜けて楽になる。
次は肩の部分がちょっと痛いと感じる。
同じく、その「痛い」に意識を集中するといつの間にか痛みが抜けている。
次々と、身体の部位がいろんな感覚をうったえてくるのでその度に同じことをしていく。
最終的にはなにもなくなる。
ぽかんと、ただ身体がここにある状態。
快も不快もない、平常状態。
そこから、じわじわとなにかが背中の方からやってくる。
ぬるい温泉みたいな、いつもの家の布団みたいな、地味な存在だけど安らげるなにか大きなもの。

こんな風に思考を止めて、身体の内側をただ感じる実験をしている。
内臓や筋肉や骨にまつわる各神経の感覚を感じてると、外側から入ってくる情報や刺激もまた内側で感じていることがわかる。
わたしがわたしであるかぎり、外側がどうあれ感じているのはわたしなので当たり前のことなんだけど。
誰かが作ったケチャップがどんな味であれ、わたしの舌に触れた味わいはわたしだけのものであり、わたしの内側で起こっている感覚なのだ。
そのことにぎゅっと意識を向けることで、その時にまったく必要ない思考がとまる。
思考がとまると、その時に全く必要ない過去の記憶や未来の予想から不安や不快感を生み出さなくてよくなるのだ。

森の中で鹿に会いました

読んでいただきありがとうございます。
祝福アレ♪

P.S.
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明日への活力です😊

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