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変動、動揺、どうしよう

早いもので師走。人の変動話ばかり聞き、私は動きとして地味だが少しだけ振り返っておこうと思う。

この3ヶ月程かけて切り替え、過去の清算ができた。というよりは流れに身を任せていたらそうなった。
休む、10日程集中し描きぼろぼろになる、休む。普段より消耗するのでギリギリまでなるべく休み、余裕の無くなった時間の中でギリギリまで描く、自然とそういう流れになり9月、10月の間何度か繰り返していた。

ずっとずっと描き続けている人、作り続けている人、擦り減らしながら闘っている人を知っているので、しっかり休むことができている私が迂闊に集中して描くだの、ぼろぼろになるだの本当は言えないと思う。

描いたところで結果として目に見え表れてきたものは今のところ何もない。結果が全てではないし、そんなもののために描いているわけではないが、雲を掴むようでどこに向かっているのか分からない。

単純に描き足りていないこと、どこに向かっているか自分で分からないから、どこにも辿り着かないの方が正しいと言えそうだ。
「進撃の巨人」2期、名場面の「何にも変わってねぇなお前は!何にもできやしねぇじゃねぇか!何にも!」というエレンが自身に言う台詞が脳内再生される。

10月から11月になる変わり目、これまで片目をつむり見過ごしてきたことが浮上するような、怒りを覚えることがあった。
そういう事がある時というのは、しっかりと色々が重なる。
丁度同時期、はっきりしないけれどこれまでと何か違うという感覚、まるで以前から出入りしていたアカウントに急にログイン出来なくなるような、ドアの鍵穴が回らなくなるような感覚を少しの間抱いていた。
私は訳がわからなくなり一度めちゃくちゃに泣いた。

また同じ日常を始める自信がないと思ったが、
目を覚ました時、フェーズが変わった、と思った。

これは万人共通事項なのだろうか。
前日と翌日とで全く空気が異なる。
これまでも何度か似たように感じた事はあったが、とても微妙なことであるし、あくまでも個人の感じ方だと思っていた。
けれども今回は、過去は過去として抜け殻になっていったみたいに感じる。
その抜け殻の外形を目で捉え呆然と眺めることができそうだ。

変わったと思った11月に入ってすぐ親友の出産報告を受ける。
予め聞いていたけれど無事生まれたことにとても安堵し感動した。
他人事だけれど全くの他人事ではない不思議な感じ。
一方で母になるとはどういう感覚なのだろう。
全くの別人になると聞く。
守るものが我が身ひとつでないことに、ただただ凄いなと尊敬する。

年齢的に母になった友人知人は多い。
立て続けの出産報告は片手で数えられなくなり軽く動揺すら覚える。
適齢という基準に否が応でも触れる機会が増える訳で、これが数字の節目を迎えるということなのだろうか。
あらゆる面において、〇〇しなければならないなど強制的なことは何もなく、誰も口出しできることでないのに、なぜ女性であるというだけで枠にはめられなければならないのか。
これが性別違えばまた向けられる内容は変わってくるのだろう。

私はその合間を抜けて抜けて他の影響を受けないところまで行きたい。
昨日まであたかも大事そうに持っていた思考的なものも必要でなかったと気付く。鎧のようにガチガチに固まったものも置き捨てて行けるはずだ。何もかも手放して土に返し、更地にする。その地を耕すところまで私はできているだろうか。それともまだ手放すものがあるだろうか。

何も見えないうちは不安だ。植える苗すら決まっていない。
けれども、「何事も楽しんでね」と私に考える余裕がなかった頃、人から言われた言葉が今になって響くようになる。
何もないどうしよう、どれにしよう、というのを楽しんでみても良いのかもしれない。

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