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橘忠衛エッセイ集「火崑岡に炎ゆれば」①

この本は、わたしの師匠の師匠が亡くなったのちに、弟子たちが編集委員会を立ち上げて作ったものだ。帯には「龍馬からシェイクスピアまで いごっそう大学教授の言いたいことのぎりぎりのぎり」とある。「ぎりぎりのぎり」というフレーズはエッセイ中に複数回登場する。なんとなく今の若い人が好んで使いそうなフレーズにも聞こえる。こういった言葉遣いや節回しがふんだんに盛り込まれた一冊で、どのエッセイもユーモアや機知に富み、本当におもしろかった。

橘忠衛先生は、四国・土佐出身で坂本龍馬の遠縁にあたる人だとのこと。

維新の傑人たちのなかで私が坂本龍馬をもっとも愛敬しているのは、ただ彼が土佐人であることや、たまたま義姉の父が坂本龍馬という同名人であって事実維新の龍馬と血縁上のつながりを持っているというような、いわば地方的個人的な親近からくるのではない。ー『龍馬の顔』より

「西郷隆盛の顔を見ていると、すでに死ぬということに熟している人間の顔であることがわかってくる。」「龍馬の顔は生命の炎上しているような、死の影の微塵もない顔である。」という、西郷と龍馬の対比が読めるのはこの作品である。

さらに『坂本龍馬』の最後には、「これら維新の三傑のーー実績でなくてーー存在はまさしく明治維新の精神史的解明の上に、もっとも重要なものと言わなければならないであろう。」という文が見られる。これは、わたしが大好きなコテンラジオで繰り返し発されている「影響力が大きいのは行為ではなく存在」という視点にもガッツリ通ずるものであり、やはりリベラルアーツを地で行くとこういう解釈になるのだなあと腹落ちしたりもする。

続きはまた明日。

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