雑感 と 政治参加の話

「ここで書きます」と高らかに宣言した後、どうも筆が進まない日が続いていた。

おそらく多くの方が大なり小なり似たような状況なのではと推測するのだが、どうにもこうにもすっきりしない感覚。もやもやとした黒い霧のようなものに覆われて、視界不良。晴れない。私の場合はGW期間中一歩も外出せずに過ごした数日間でそれが加速した。何をやってもしっくりこない、本来好きなはずのこともいまいち楽しめない。

そんなわけで、この状況下ではネガティヴな発信しかできないと感じたので、ストップをかけていた。

コロナ禍でもあれやこれやと工夫して何とか心身の健康を保ってきたが、ステイホーム2年目にして、ついに行き詰まった感覚。

ここがデッドエンドか。これがスランプってやつか。(まあ私の人生ずっとスランプなんですけどね、ってやかましいわ!)ここが行き止まりなら、元来た道に戻るか、他の道を探るか、もしくはこの目の前にそびえ立つ大きな壁を叩き割るか、壁のどこかに扉を探すか。今回ばかりは明確な脱出プランがないと太刀打ちできなさそうである。

しかし現実は日々のTODOに追われ、それをこなすので精一杯。大きな渦に飲み込まれるだけ飲み込まれ、されるがまま、という感じだった。

これは余談なのだが、この仕事をしていると、生放送の時間以外は何やってるの?と聞かれることが度々ある。その答えは「仕事してます」だ。生放送の時間だけが仕事ではなく、それに係る準備であるとか、打ち合わせや原稿書きやインプットの類、もちろんインタビュー収録であるとかそのような諸々の仕事が、本番以外の時間にしっかり待っている。

暇だと思われてるんだろうな〜と思うが(自由業だもの、そう見えるよね)、おそらくあなたの想像よりはほんの少しだけ働いている。(それでもみなさんよりは暇人だと思います。否定しません)

さて、そんな状況から脱出劇をうまく演じられたのかというと、残念ながら、だ。ただそれでも構わず書いていこう!えいや!という気持ちになれてきたところ。

ガイアツに期待する日本人

日本人って大人しいなとつくづく感じる。(おとなしいは「大人しい」と書くが、お行儀よく黙っていることが真の「大人」なのだろうか?)

これがもし他国であれば、今すぐにデモや暴動が起きてもおかしくない状況にあると思う。今の日本はそれくらい末期だと思う。しかし日本ではそういう大きな動きは起きない。不思議だ。(※デモを扇動したり暴動を肯定するものではありません)

twitterデモなどはそこそこ展開されているのを目にするが、それでもまだ限定的だ。それに正直言ってツイデモにそんなに強い効力が期待できるとも思えない。

BBCが今日「日本人はガイアツ(外圧)を期待している」と報じていた。

強烈な見出し、的確な記事。なんと情けない。情けないがその通りだろう。自国のことすら自分たちでどうすることもできないのだから、あとは外圧に頼るしかない。内側からはどうしようもない。外部の人が何とかしてくれるのを待つ。多くの人がきっとそう思っている。恥ずかしい話だが。

そこには「こんな世の中だから仕方がない」「どうせ変わらない」「どうせ変えられない」という諦めが大いに働いているのだろう。

忖度、空気読み、の文化も大いに関係していると思う。

もっとミクロな視点で個人の生活レベルでも、同じことが言える。(例えば職場において、学校において、家庭において)不条理に感じることがあっても、疑問を呈しても何のメリットもないし、声を上げるだけ不利益をこうむる可能性だってあるのだから、言うだけ無駄。と考えて、衝突やデモを回避して暮している人がほとんどなのでは。(かく言う私もそうなので、情けなくて仕方ないのだが)

一方米国では、ジョージ・フロイド氏の死から1年を迎えた今日、各地で追悼集会や抗議デモが開催。参加者の女性のインタビューを見たが「私たちは黙っていない、ということを示さなくてはいけない」と話していた。

その言葉を聞いて、また情けなくなった。

傍観者意識・被害者意識から当事者意識へ

「誰かが何とかしてくれるだろう」という「傍観者意識」

これではおそらく永遠に幸せになれない。映画なら(それも昔の)どこからともなく王子様やヒーローが現れて棚ぼた式にハッピーエンドを迎えることはあるだろうが、現実には起こりえないし、その結末は真のハッピーエンドなんだろうかと疑ってしまう。

「国が、時代が、環境が、会社が、あの人が悪い」「私のせいではない」

こう考えると一時的には楽なのだが、実際のところ非常に辛い。なぜなら、自分ではコントロールできないところに全てがあるのだから。常に自分の生活が他者の影響下にあり、支配され振り回されて生きる。

ハンドルは自分が握っていないのだから、幸せになるのも不幸せになるのも、他人次第。自分ではどうしようもないのだから、永遠に自らの意思で幸せになることはできないということになる。筋書きを自分で決められない。こんな恐ろしいことはない。

腹立たしいことがあるとついつい他人や外側のせいにしてしまいがちだが、まずこれを止めないことには、何も始まらない。自分の物語が始められない。

現実の責任はまず自分にある、と引き受けること。

「被害者意識」を今すぐに卒業することだ。

このことに私もようやく気付けた。

我々に欠如しているのは「傍観者意識」と「被害者意識」の対極にある「当事者意識」なのだと思う。

健全な社会を生きたい。

最後に

テレビの報道で「”おうち時間”とかまるで楽しいことみたいに押し付けないで」という小学生(小4男児だったかな)の声が紹介されていて、はっとした。と同時に、押し付ける側になっていなかっただろうかとぞっとした。

「お家で楽しいことして過ごしましょう」だけではもうどうにもならない。

次なる一手(というか、本来の一歩)を打たなければ、と強く思う。

因みに、問題提起系の(自由な)発言に対して時々変な角度から賞賛させているのを見ると何とも言えない気分になる。当たり前のことが「勇気ある発言」などと言われてしまうことに問題があると思う。それも当事者意識の外側から来るものか。

健全な社会を生きたい。(大事なことなので2回言いました)

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