オープンな議論を望む : 「音楽に政治を持ち込むな論争」など

以下の記事が公開になりました。

多くの方々にお読みいただいているようで、様々な反応も届いており、ありがたいです。

好意的な反応の末尾にも「ちょっと長いけど」という意見が散見されて、「だはは(苦笑)」ってなったよね。すみません。最後までお読みいただいたみなさまの忍耐力にも感謝致します。

その他、非常に勉強になるような意見も頂戴しました。ありがとうございます。

今後よりシャープでスマートで読みやすいものを心がけていきます。

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しかし今回感じたのは、公に発言することは賛も否も浴びること、という事実。

そもそも人前に出る仕事を生業にしているので、その点の実感は持っているつもりではあったのだが、改めて感じた次第。

何かを言えば、誰かが返してくる。それはとても健全なことではある。責任を持って発信した以上、どんな意見も甘んじて受け入れる。当然のこと。もう一度言うが、その関係性は実に健全だ。

もちろん明らかに公序良俗に反するものや倫理観が欠如した発信などは、非難されるべき(最近の集団リンチに近いような行き過ぎた吊るし上げはどうかと思う時もあるが)ではあるが、物事や考え方にはグラデーションがあり白か黒かの二択ではない以上、様々な意見をぶつけ合う、耳を傾け合う、その姿勢は重要だ。

ただ困ったことに、時に明らかな悪意を持って攻撃してくる輩がいるのである。(私が今回そのような攻撃を受けたという意味では全くない。その点は強調しておく)

そういうことを考えると、なるほど、これは積極的な発言をためらう人が出てくるわけだ、と感じる。誰でも否定や批判はされたくないものだし怖いものだから、自分の身を守るために沈黙してしまう。(匿名でなら発言できる、というのもそういった恐れからだろう)

私だって、嫌だ。できれば人前になど出たくない。叶うなら黙っていたいし、安全な場所にいて一生スナック菓子でも食べて何も考えずに暮らしていたい。(これはスナック菓子を否定するものではない。筆者もスナック菓子は大好物であるし幸せな食べ物だと考えている。とか!こんな意味不明な注釈を入れなきゃいけないポイズンな世の中になってしまったことも、また別の課題として怖いです)

ただそんなことをしていると、もっと恐ろしいことが起こる。沈黙を続けているとそのうち自分の声がわからなくなってしまう。いざ声を出そうとしても、声の出し方すら忘れてしまっては時すでに遅し。かろうじて発声できても、肥大化した周囲の声にかき消されて自分の声が聞こえない。想像しただけで怖すぎる。

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H.C.トリアンディスの著書「集団主義と個人主義」によると、「集団主義者は"みんなの考え方、感じ方、行動が同じであること"を望み、個人主義者は"議論を通して立場を明確にすること"を好む」「集団主義者は批判を嫌い、無批判な権威主義的な態度が望ましいとされる」そうだ。

トリアンディスによると、日本は「集団主義」の文化に分類される。

他者を思いやる、周囲に配慮できる、日本人の美しい気質だと思うが、他者に遠慮してばかりで自分を押し殺せば本当に心が死んでしまう。大勢と同じであることに安心しきって集団の中にいると、多数の人の声こそが正しいと思い込むようになり、自分の真理すら見失う。

なので。一人ひとりが恐れることなくもっと発言していける世の中になってくれれば。

今回多くのリアクションをいただいたことを、私は非常に前向きに捉えている。意見交換できる社会になりつつあることが、うれしい。

その先の幸せを享受するために、オープンな議論を望む。それが許容される社会になってほしい。


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