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腐りきった世界の真ん中で

鈴さんという方のnoteが話題になった。不平等とは何か、平等とは何か。生まれや育ちで分断された社会が今の日本の普通。というような内容のものでした。そのnoteを読んで衝撃をうけたうちのひとりの記録です。読んでもらえるとすごく嬉しい。

私の「ふつう」はこんなかんじですっていう記事です。私の人生も、鈴さんと同じ書き方で振り返ってみようかなって。

なんかすごく長くなってしまったんですが、お時間ある際にぜひ。
※ですますは統一できてません。推敲すると、もっとかっこよく見せようとしちゃうのが悪い癖なので。今回は、ほとんど荒削りです。

※身バレ対策で一部有料化しました。

【0〜6歳】

生まれたのは東京都の23区のはしっこ。実家は大きな土建屋。両親がおらず、祖父母の家で暮らしていた。両親がいないことは特に不憫に感じているわけではなく、よそんちにはおかあさんがいるけど、うちにはいない。@@小学校の先生、◯◯スーパーの店員さん、●●ちゃん家のおかあさん、というように、おかあさんという職業が私の家にはいないっていう感覚だった。その代わり、職人さん(祖父に雇われる従業員ですね)がしこたま出入りしていて、いたずらでもしようもんならしょっちゅう殴られてた。

通っていたのは区立の幼稚園。家業が忙しい祖父母にとっては、バス送迎ありで預かってくれるならどこでもよかったようだ。実際に、近所に住んでいる子はクラスメイトには皆無だった。送迎が必要な子=遠くの家の子ってこと。仕事の邪魔になるので、幼児教室と言う名の延長保育にそのまま残って、毎日体操や勉強や歌の練習をした。前述のとおり近所に友達はいないので、家でもお勉強のビデオテープをみて留守番をした。そのおかげか、簡単な漢字や掛け算九九は、小学校に上がる前にマスターした。絶対音感も身についた。遊ぶ友達がいないために一人でする遊びしか知らなかったので、レゴや折り紙ばっかりやっていた。家やお城を自分で作っては自分で壊していた。

しかし、勉強やレゴを褒められた記憶はない。仕事に邁進する家族にとって、私の成長は眼中になかったのだった。「べつに、わたしなんかいなくてもこの家族はなにも困らない。」この時感じた寂しさ・疎外感は一生続くことになる。

幸い、土建屋は繁盛していた。年に2回か3回、海外旅行にも連れて行ってもらった。しかし、旅先でも私はせかせか歩く大人たちにただついていくだけだった。置いていくわけにはいかないから連れていくだけ、といった具合に。見かねた叔父が、海外で迷子になっても自力で帰れるように、簡単な単語とアルファベットを教えてくれた。お気に入りのうさぎ柄のメモ帳に、私の名前のシールを貼ってくれた。「こまったら、これを見せて、アイムジャパニーズ、マイネームイズ◯◯◯って言うんだよ。」
それでも、旅先で見た彫刻やステンドグラス、教会の細かい装飾の絨毯などは、私の女の子心にすごく魅力的にうつり、うっとりする気持ちになれた。

【7〜8歳】

小学校に入学した。都内にしては田舎のほうだったのでかなり少人数の学校。校庭がやたらと広かった。

入学してすぐ、ポケモンが発売されて、ゲームブームがやってきた。私のクラスメイトは皆ゲームボーイを持っていて、放課後は誰かの家でゲーム漬けらしい。私はそういうものを一切所持していなかった。当然いじめられる。ゲームを持ってない子は、給食を配られない、掃除当番を押し付けられる、上履きがなくなる。さらに「おかあさん・おとうさん」のいる家の子たちに、「おとうさん・おかあさん」がいないことでいじめられるようになったのは結構こたえた。いなくって当然のはずのことを、いて当然だという「ふつう」に遭遇したのだから、心の中は常にパニック状態。ゲームがなくて、おとうさん・おかあさんがいないということは、人にあらず。そんな常識がわたしのおかれた小学校での「ふつう」だった。

気に入らないことがあればまずげんこつを食らうのが、土建屋さんの家で育った人あるある(だと思いたい)。同じルールで小学校にいたものだから、しょっちゅう校長室に呼び出されてお説教された。殴ってはいけないんだって言われても、そんなのふつうじゃない。私の家がふつうなんだ。おかしいことはない。何がいけないのかわからなかった。

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