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奥多摩の中世城郭1 栃久保の城

 試みに投稿してみた記事が問題無く表示されている。良かった。

 さて、東京都の最深部、奥多摩に中世城郭遺構が多数存在することは余り知られていない。その多くは山深い処にあり、踏査に困難を伴うためである。また、遺構の中には奥多摩湖の湖底に沈んでしまったものさえある。ここ数年、数寄者を自認する筆者は奥多摩町の中世城郭遺構を何か所か踏査した。その知見を公開して研究の深化に期待したい。

 なお、筆者の記述は覚書と言うのがしっくり来るようなもので、正確性を絶対に保証できるものではない。明確な出典が必要な場合はワールドワイドウェブなりを使って御自分で資料の渉猟にあたって頂きたい。

 1つ目に取り上げるのは「栃久保の城」である。奥多摩駅から三田羽黒神社経由で林道小中沢線に出て、30分ほど歩いたところにある。栃久保の、と断ってあるのは、この城のある集落の小字が「城」であり、遺跡の名前が「城」では大変紛らわしいからである。栃久保は城集落含む氷川の西側一帯の大字だが、かなり範囲が広く、「栃久保の城」に就いても名称については検討の余地があるように思う。

図1 城集落の位置(概略図)
国土地理院公開の電子地図25000に加筆して作成
図2 堀切状遺構の位置
国土地理院公開の電子地図25000に加筆して作成

 さて、当該遺構は『新編武蔵』の栃久保村の項で触れられている。いま手許に本がないので引用することは適わないが平将門に関する旧跡と述べていた筈だ。また、管見の限りこの城の踏査の最も古い記録は高橋源一郎氏の『武蔵野歴史散歩』の中での記述だが、高橋氏は現地に赴いたものの結局遺構らしいものは解らなかったと書いている。

 ここを城郭遺構として紹介したのは『城郭大系』で、見取り図も載せており、尾根上の平場を曲輪のように描いている。

 筆者は2022年12月に栃久保の城を踏査したが、堀切二条を確認したのは先に述べた通りである。しかし、これらの堀切の間には平地がまったくなく、かと言ってこの堀切によって切り離された尾根上の平場に遺構はない。また堀切は2つとも登山道と接続しており切通しに見えないこともない。城郭遺構かどうか少し疑わしい点もあるが、筆者は伝承の存在と他にも城がこの城の周辺に残っていることから城郭遺構という評価を下したい。


図3 栃久保の城 縄張図
(筆者作成、スケールが見切れててごめんなさい)

 なお、多くの地形図や立体図を公開しているOpen‐hinataで閲覧可能な東京都赤色立体図で栃久保の城を見てみると、筆者が踏査して遺構無しと判断した尾根先の部分がかなり広い平場になっていることがわかる。かつて何らかの造作が行われたのだろうか。

 さて、最後にこの城の現状を記しておく。地元の水道局の方によると、城集落にある家は3軒ほどで、今は土日にお墓参りや家の整備をする家の方がいらっしゃるくらいで、無人のことが多いそうだ。

写真1 北側の堀切
写真2 堀切に挟まれた狭い尾根上

(2023/12/06執筆、今後加筆予定)

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