見出し画像

鎌倉 男 ひとり ①鎌倉に住む


 昨年(2023年)春、三月の半ばから一か月余りを鎌倉で過ごした。駅からさほど遠くない大町の一隅に部屋を借り一人暮らしをしたのである。
 なぜそんなことを、といわれれば、鎌倉が好きだから、としかいいようがない。好きな町で暮らしてみたいと、いたって単純な理由なのである。
 東京育ちのご多分にもれず最初の鎌倉体験は小学校の遠足である。古いアルバムを開いてみると1960(昭和35)年の5月、江の島まで足を延ばしている。
 鎌倉を歩き回るようになったのは大学に入ってからだった。たいていは北鎌倉で降りて円覚寺から明月院、東慶寺などを見て建長寺、トンネルをくぐって八幡宮の裏に出た。途中円応寺の子育て閻魔に寄ることもあった。
 別段これといった目的があったわけではない。友人たちと雑誌を作り小説の真似事のようなものを書いたりしていたから「鎌倉文士」なるものにあこがれるような気持ちもあったのかもしれない。永井龍男が好きだった。
 自分が何をしたいのか、何になろうとしているのか、皆目わからない時期である。ただやみくもに歩き回り、最後はたいてい海が見たくなって由比ヶ浜まで足を延ばした。ダジュールという小さな画廊喫茶が好きだった。
 73(昭和48)年に出版社に入った。呑気な時代だったというか、今ほど「数字」や「効率」などということをいわれなかった時代のおかげもあったのだろう、「取材」と称して社を抜け出すことを覚え、鬱屈するとまた鎌倉を歩いた。いかにも観光地の絵ハガキのようだと敬遠していた大仏の表情に何ともいえない魅力を感じるようになったのもこの頃だ。


 何度かの人事異動があり、子どもの本の担当になった。鎌倉には何人かの児童書の作家が住んでいて、行く機会が増えた。「鎌倉会」と称して若い編集者や作家との飲み会を開き、顔を出せば覚えていてくれる居酒屋もできた。定年が現実的なものになるにつれ、私はこの町に住みたいと本気で考えるようになった。
 とはいえ、いうまでもないことだが資産も何もない一介のサラリーマンにとって家を持つということは一大事業である。東京の西郊外にようやく構えた家を処分するにしても、仕事を退いた年金生活者の鎌倉転居など、ほとんど夢物語のようなものである。
 経済的なことだけではない。親の介護を筆頭にしがらみは至る所にあるもの。居住地を移すということはそう簡単なことではない。 
 で、たどり着いたのが「期限付きの賃貸マンション」。細かい経緯は省略するがネットで見つけた大町の1LDKに申し込んだ。3月15日から4月20日までの37日間である。 
 このマンション、基本的には「すべて」揃っている。テレビもあれば洗濯機、掃除機、電子レンジ、鍋釜から皿、茶わんに至るまで。料金も「込み込み」で、賃料が一日4850円、光熱費がやはり1日1000円。これに加えてリネン代だとかハウスクリーニング代事務手数料などが加算される。高いと思うか安いと思うかは人それぞれの感じ方だろうが、電気もガスも「使い放題」、Wi―Fiも完備していることを思えば決して法外なものとはいえないだろう。コロナで我慢していた海外旅行に行ったと思えば、という感じである。
 暮らし始めるにあたって二つ「決めごと」をした。一つは食事は基本的に自炊、外食は週2回程度にすること。もう一つは観光はしない。「生活」をするのであって「遊び」に来たのではないということである。
 もっとも、何をもって「観光」というのかはきわめて曖昧。炊事だの洗濯だの「家事」を優先して考える、といった程度の意味か。自宅にいる時とあまり変わらない生活をする、ということである。
 6時から6時半の間くらいに起き、パンと目玉焼き程度で簡単な朝食をすます。洗濯機は回したり回さなかったり。掃除もまた然りで、要するに家事雑用を終えて大体9時半か10時くらいから午前中いっぱいを好きな本を読んだり、あてもない雑文を書いたりして過ごす。正午になるとNHKのニュースを見る。麺類の昼食を終えて1時ごろまではぼんやりテレビを見る。しばしば睡魔に襲われるが、いざ昼寝をしようとなると寝付かれなかったりで、たいていはその場のうたた寝程度でおわってしまう。夕食は6時頃。自炊だから5時過ぎからテレビを見ながら支度にかかる。入浴は9時半頃、就寝は10時半くらい……つまりはそんな単調な毎日をこそ大切にして、時間が余ればどこかぶらぶらすればよい、とそんな気持ちだった。いたって幼稚なこだわりといわれればそれまでのものである。
#鎌倉 #一人旅  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?