仏の座
面白い夢を時々見ますが、昨晩もちょっとかけ離れた夢を見ました。
覚えているところだけ書くと、内容は至ってショート動画です。
ある人が、それまでは見えていたのに、病気か何かで今後失明をしてしまうという話でした。
徐々に見えなくなる悲しさが伝わり、遠巻きに見ている私も切ない気持ちになってきましたが、
その時に、別のところから声だけが聞こえて、
「あの人は『仏の座』に行くのだ」
と言われるのです。
『仏の座』と言うと、あちこちに咲いている花や、春の七草にもある植物の名前ですが、ここではどうやらそういう名前の場所を表しているようでした。
その『仏の座』という場所には、すでに身体を持たずに、いわゆる悟りを得たり、それを目指す方々がおられる場所のようで、仏教でいうところの如来や菩薩がいるような、次元が違うところのようでした。
で、身体の障害などは、生きながらその『仏の座』に行く準備をしている、いわゆる修練者の状態である、という声が聞こえてきました。
夢はここで終わりました。
身体の不自由な状態や病気、それには心の病も含まれるかもしれません。
本人の意志とは関係なく、抱えなければいけなくなった状態を外から見た時、人は多くの場合、気の毒に思う、とか、可哀そう、という風に見てしまうこともあるでしょう。
実際私も夢の中では、失明していくであろう方を見て、そのような気持ちになっていました。
しかし、それは人間の脳で考えただけの表面的なことであって、実はそうではないということです。
そこには深い理由があって、『仏の座』に進むための修練中であるとわかれば、人が抱える問題や出来事というのは、気の毒だとか可哀そうということではないのでしょう。
周りが勝手に、あの人は大変だろうとか思うことではない、と感じた夢でした。
生きていれば、いろんな出来事があります。
例え身体は元気だったとしても、理不尽と思えることもあるでしょう。
感謝できない時、悲しみや苦しみ、今まで何もなく生きてきた人などどこにもいません。
みんないろんなことを乗り越えながら生きています。
それは、すべての人が『仏の座』に向かう修練者だから。
今はまだその旅の途中なのかもしれません。
そのように思えると、日々の出来事もまた、修練のための課題ですから、自分に与えられた課題を見て、私は可哀そうとか、他の人の課題を見て、あの人は可哀そうとはなりません。
みんな自分の課題と向き合っている、同じ修練者です。
だとしたら、出来ることは、
自分には必ず課題を乗り越えられる力があると信じること、
そして、
他の人も必ず課題を乗り越えられる力があると信じること、
さらに、
互いに応援し合うこと、だけでしょう。
夢の内容から私の勝手な解釈にはなりますが、
いかがでしょうか。
すべての出来事が修練のための課題だとわかれば、すべての出来事に感謝となります。
とはいえ、私もまだまだ感謝できない時も多く、ちぇッて言いながら、公園で空き缶を蹴っている時がありますから、
まだ、修練中の身なので(笑)
そういう自分にもOK出したいなと思っています。
今日もお読みいただきありがとうございます!
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