粉砕された「私」の人生─叩くなら折れるまで

先週、最終話を目前にひかえて、私の「取るに足りない人生」と、及川さんについて書いた。そして、書き上げた後、やはり最終話をきちんと読んでから改めてもう一度、「及川徹」と私の人生について書きたいと思い直した。よって、私はこの一週間、あの話は必ず入れるとかこの要素は拾いたいとか、あれこれ構成しつつ、自分の人生を振り返っていた。中には、我ながら感傷的過ぎるかもしれないと思う要素もあったが、前回あれだけ曝け出したのだ。それに、何よりその出来事は、私にとってはやはり大きな問題であり、私の人生を語る上では、決して外すことが出来ないものだった。だが、及川徹は、そんな私の1週間、いや、むしろ感傷そのものをふっ飛ばしてしまうような、圧倒的な「強さ」で、私の前に現れた。

最終話は、ある意味では予想通りだった。及川さんがアルゼンチン代表として、影山日向と再戦する展開。多くの人が、一瞬は予想したであろう最終話。しかし、そんな(少なくとも私にとっては)予想通りというか、なんの捻りもない「及川徹」は、私の予想を遥かに超える「強さ」をもって、私の目の前に現れた。及川徹は、私のこうであってほしいという甘えのような期待を完膚なきまで、バッキバキに叩き折り(だってそれは期待されるまでもないことだから)、数千倍の濃度に煮詰め、物語における決定的な事実として、ただただ「強く」なって、私の前に現れた。そんな彼の圧倒的な「強さ」は、私の感傷すべてをぶっ飛ばし、私は彼のプレーに歓喜する「一人のファンとして」生かされた。

私は、たくさんの私を生きている。家族の中の私、友人といる私、教員として生徒に接する私、あるいはハイキューを愛する私。すべて、私は私であり、しかし厳密には、それらの私は同じではない。姉である私、友人しての私、教員の私、ハイキューファンの私。それらは、緩やかに繋がりながらも、それでいて、少しずつ背負うものの異なる私だ。最終話を読んだとき、私は文字通り、それら全ての「我」を忘れて、及川徹のプレーに熱狂する、及川徹──彼の「バレーボール」──のファンとして、「私」を生きることができたのだ。ほんとうは、バレーのルールもちゃんと知らない。ファンと名乗るには、おこがましいかもしれないし、これまでもこれからも、私は私の現実、人生から逃れられない。うれしいことも、悲しいことも、苦しいことも、楽しいことも、つらいことも、なにもかも、私は私の人生全てを引き受けて生きていく。しかし、あの、402話の及川徹の前で、私は、一人のバレーボールファンで、彼の好プレーに歓喜できる、そんな人生を送ってきたような気がしたのだ。スポーツとはあまり縁のない人生を送ってきた。しかし「バレーボールは面白い」と、及川徹を通して、確かに、実感として感じることが出来たんです。バレーボールは、かっこいいと思うことができたんです。

一週間、書こうと思っていた話はもちろんボツ。それよりも、今の私は及川徹の「強さ」を、ぎゅっと噛み締めたい。ほんとうに圧倒的だった。最高の最終回だった。あなたは、かつて言いました。「叩くなら折れるまで」。私は見事あなたに粉々にされました。私を壊してくれて、ありがとう。私を、あなたのファンにしてくれてありがとう。コートを制す大王様。私はいつまでもあなたが大好きです。及川さん、君の「強さ」は、コートに収まるものじゃない。知ってたけど、ほんとうは知らなかったんだ。宣言通り、全員倒してくれて、ありがとう。コートの外にいる私さえ、ぶっ飛ばしてくれてありがとう。及川さん、私は私の人生を生きます。17の夏から今日まで、貴方とともに成長できたことがうれしい。君に置いていかれないように頑張るね。明日、私は何者になろう?



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