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『HSPブームの功罪を問う』を読んで-HSPとわたし②-

前回の続き
『HSPブームの功罪を問う』はどんな本かというと↓

(本文p.4より引用)
本書では、HSPブームの功罪のうち、とりわけ「罪」にメスを入れたいと思います。この試みは、加熱するHSPブームを冷静に、そしてバランスよく捉えなおすことに他なりません。これまで注目されなかった罪の側面を議論し、それを広く発信することは、HSPに関心のある人々を罪の側面から守ることにもつながるはずです。(引用終わり)

とある。

(本文p.3より引用)
「HSPを知って、それまでの生きづらさが腑に落ちた」。
SNSなどでよく見られる声の一つです。目に見えない「生きづらさ」にHSPという名前が与えられることで、安心する人々が増えました。これはブームの良い側面と言えるかもしれません。(引用終わり)

とした上で、なぜHSPが人々を魅了したのかを考察、その後ほとんどのページでは「罪」の部分について深く掘り下げている。

障がいではないから公表しやすい、何かとラベリングしたがりの人間、誤情報も溢れている情報の洪水、非HSPへの偏見など、なるほどなと思った。
HSPカウンセラーという民間資格(お金を払って講習を少し受ければ取れるようなもの)への危機感も語られていて、わたしもよく感じていた「食い物にされてるなあ」っていう感覚が解説されていた。こういうところに絶対沸いてくるビジネス。

日本で浸透しているHSPと、学術的なHSPの乖離について分かりやすく書かれている。
言葉だけが独り歩きして、正しく理解されないまま広まってしまったHSPについて、専門家の見解から比較的ニュートラルに、そして簡潔に知ることができる良書だった。

◾︎わたしの思うこと
「HSP」という言葉が市民権を得だしてしばらく経ったくらいか、「HSP」や「繊細」という言葉があまりよくない使われ方をしているように思うことが増えていった。自らを繊細だと主張し相手に気遣いを求める人の存在や、HSPを免罪符のように使い乱暴な振る舞いをする人たち。そしてそれを「自称HSP(笑)」「繊細さん(笑)」などと揶揄する風潮。

職場でも「HSP?繊細さん?っていうの流行ってるんでしょ?」「ぼくも繊細さん(笑)なので」という会話を聞くことがあり、あーこれはイヤなブームになってしまったなー、と肌で感じていた。
広く知られることは、いい影響だけを生むわけではない。「概念を知って救われた」当事者たちを置いて、無理解な人たちのおもちゃになってしまったように感じて、ネットを見るのが嫌になったこともあった。

自分がHSPだと知ったとき「あ~、わたしって駄目な人間じゃなかったんや」「こういう人もいていいんや」と安心したのを覚えている。
調子悪い人が「風邪ですね」と病名をいわれて安心するように、何か名前がつくことで安心できることってある。
そうやって少し前向きになれるんなら、この言葉を概念を便利に使ってやればいいと、そう思っていただけだった。

まだブームになって3.4年。これからどういう風に捉えられるようになるのかはまだわからない。わたしが感じているブームによる弊害は、新しい言葉や概念が広まっていくときの通過儀礼のようなものなのかもしれないなと思った。

メモした言葉↓(本文より引用)

p.14
したがって、ここで改めてHSPの定義を確認するのであれば、それは「ネガティブな刺激や経験から悪い影響を受けやすく、一方でポジティブな刺激や経験からは良い影響を受け取りやすい人」だと言えます。つまり、感受性の高さゆえに、他の人よりも、「良くも悪くも」影響を受けやすいということです。

p.25
「繊細で人よりも傷つきやすい。でも、繊細であるがゆえに、人よりも物事の良いところに気づき、感動したり共感したりすることができる」。こうした「物語性」が、HSPブームで語られています。

p.26
極端な例かもしれませんが、HSPが「10万人に1人」だったら、なかなか同じような悩みを抱える人に、それがたとえSNS上であっても、出会えなかったでしょう。こうした「5人に1人」という絶妙な割合が、人々がHSPに魅了される背景の一つにあるかもしれません。

p.30
HSPの「何が」人々を魅了したのか。その要因をここまで考察してきました。想定しうる様々な要因を取り上げましたが、次に考えたいのは「生きづらさに名前がつく」、というものです。ラベリングによる自己受容の促進という側面は、HSPラベルと人々との関係を考察するうえでは不可欠だと思います。

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