本音の自分と建前の自分

キャラ付けって楽だと思います。
そういう型に当てはめれば考えなくても生きていけるみたいな、どんな自分が求められているか分かるみたいな。

でもそれに縛られていたなぁと同時に思います。

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以前『病んでる?と聞かないで。』というnoteを書きました。未だに読んでくれる方もいらして嬉しいような恥ずかしいような

このnoteを始めるキッカケはこの感情でした。
180字のTwitterや数枚の写真のインスタグラムじゃ伝わらない自分の思考を表現する場が欲しかった。そして、飾らず周囲の目を気にせずに生きてられる空間が欲しかった。

自粛期間で人と会う時間が減って「人にこういうキャラで見られている」という感覚を忘れていた気がします。

久々に人と会ってコミュニケーションを取って、自分って何だろうと思ってしまいました。
あなたってこういう人だよねって言われることが辛い。
そう思われていることと自分が隔離していることが辛い。
本音の自分と周りから見た自分のどっちが正解なんだろうって。

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建前の自分と本音の自分

どちらも相反するわけでなく、被る部分がありながらもズレがある。

そのズレをキャラとして捉えられてしまうと違和感を抱いてしまいます。
私の場合、本音では理屈っぽい部分を隠して、ツイ廃の部分を出している気がします。

正直言って私の本質は変えていないのだけど、ちゃんと理屈っぽくなりすぎないようにしているから単に病みやすいやつって思われているのが面白いです。

自分でこうなんだなって解析しただけなのに、それが何か病んでいると思われることが多々あります。

負の感情を抱いて、それを機に考えることが嫌いじゃないのに、負の感情自体を病みとカウントされます。

周りから見た自分は、自分という性質の一部分でしかない。全部ではない。なのに、その一部分に自分が拘っている気がします。

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何も考えなずに生きればいいのにね。

不器用な生き方だなってつくづく実感します。

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