3.11当時の備忘録
2011年、イタリアでツアー旅行をしている際に、3・11が発生しました。
これは地震発生の11日から15日まで、イタリアから日本に帰国するまでの備忘録です。
これを書いた2011年3月15日の文章そのままになります。
当時書いたこの文章を、これまで探せずにいましたが、2024年の3月11日に発見したため、これも備忘録として、ここに乗せておきます。
当時の自分の心や行動をまとめたものです。
以下、当時の備忘録の原文です。
長々としていますし自己満足でありますが、気持ちを落ち着かせるためと、忘れないための記録として、11日からの自分の動きをまとめてみました。
3/11当日イタリアにて
11日はローマに居ました。その日は1日フリー行動の日で、一緒に行った友達と街を観光して、道に迷いながらホテルに付いて、ホテルの近くのショッピングモールで食事後ホテルに戻った時に地震を知りました。
現地時間の夜10時頃だったと思います。
○22時頃(イタリア現地時間)
部屋に戻る途中、同じツアー参加者の人に偶然出くわして、その時に教えてもらいました。ネットで知ったと言っていました。
その人たちはツアー添乗員の人の部屋に行くとのこと。私たちも一緒について行くことにしました。
添乗員さんも、情報は集めているのですが詳しいことは解らないとのことでした。
次の日が帰国日だったので、帰国も心配でしたが、この時点では予定通り飛行機は飛ぶということで、情報待ちという状態でした。
ただ、ツアーには3つのグループがあって、
①成田からの参加者
②関空からの参加者
③オプショナルツアーで12日から3日間フランスに向かう参加者
添乗員さんは②のグループと一緒に、飛行機の関係で①のグループより先に帰国することになっていました。私は①でした。
不安でいっぱいになりながら、取り敢えず落ち着こうと部屋に戻りました。
部屋のテレビを付けたら「JAPAN TSUNAMI」とニュースが放送されていて、仙台や福島原発の情報が流れていました。
情報提供はNHKでしたが、画質が悪いことと、アナウンスが全てイタリア語なので映像を見る限りの理解でした。
日本時間で遅い時間なのは知っていましたが、心配なので、日本の家族と連絡をとることにしました。
幸い友達の携帯がiPhoneで海外でも使うことが出来ました。友達の家は埼玉なのですが、電話も繋がって、家も家族も無事なようで安心しました。
私もホテルから海外電話の仕方を教えてもらい、電話したのですが繋がらず(後で掛け方を間違ったことに気づきました)、友達にiPhoneを借りたりしましたが、繋がりませんでした。
この時日本時間で午前2時くらいだったと思います。
きっと寝ているのだと思い、取り敢えず今日は寝て、明日また掛けようと思い その日は疲れていたのでお風呂にはいってすぐに寝ました。
3/12経由地イギリス、空港、飛行機が飛ばず1泊
○11:00(イタリア現地時間)
飛行機の時間の関係で、朝ご飯後、朝11時ホテルロビーに集合しました。(飛行機は15時出発予定)
関空組は現地時間の午前3時にホテル出発だったので、私たちが起き出したころにはもう居ませんでした。
11時に携帯を借り、家に電話をしましたが、また繋がらない状態でした。タイミングがきっと悪くていないのだと思うようにして、この場での電話はあきらめました。(一緒のツアー参加者の人によると、携帯への通話は出来ないとのことでした。)
この時、私の地元(栃木県)では被災後停電が続いていたというのを帰国後に知りました。
○11:30
英語を話す現地のガイドの方と一緒にローマの空港へバスで移動。バスの中は旅行最終日にも関わらず、皆沈んでおり重々しい空気でした。
1時間ほどで空港に着き、フランス組の③グループと別れました。
グループ③の人たちも、心配なので日程を中断して日本に帰りたいと言っていましたが、空港から別行動になってしまったため、その後はわかりません…現地ガイドさんともここでお別れでした。
○15:00
イタリアから日本への直行便が無いので、一度イギリスのヒースロー空港に行き、そこからJALの成田行きに乗り継ぐ形でした。
イタリアからイギリスまでは無事時間通り飛行機が飛び、イギリスに行くことが出来ました。
この時点ではまだJALの飛行機の情報は特に聞いていませんでした。(放送はあってもイタリア語なので分からなかったのかもしれません)
○16:40(イギリス現地時間)
無事イギリスのヒースロー空港に着けました。
手荷物検査を終え、飛行機のチケットを買うためJALの窓口へ。日本へ帰る①グループは男女合わせて12人居ました。学生限定ツアーで、時期も時期なので皆卒業旅行の学生でした。皆固まって行動しました。
19時出発だった成田行きの飛行機が、地震の影響で飛べなくなったことを知りました。
飛ぶのは翌日17時予定とのこと。ほぼ1日待つことになりました。
JALの方で空港近くのホテルの手配をしてくれるとのことで、そこに泊まることにしました。
私たち以外にも足止めをされた日本人の人々が沢山いました。
イタリアの空港で預けたスーツケースを取り出すことも出来るようでしたが、心配なので預けたまま、皆手荷物と身体だけでホテルに向かうことにしました。予備の下着を手荷物に入れるべきだと心底思いました。
JALの受付のお姉さんたちは皆凄く疲れている様子でしたが、空港内のコンビニや、換金場所、イギリス入国の為の簡単な書類や出国手続きの場所、ホテルまで行くバスのバス停まで連れて行ってくれ、バスチケットの買い方も教えてくれました。本当に感謝しています。
イギリスはユーロではなくポンドなので換金もしなければなりませんでした。心配だったので190ユーロ換金したところ、140ポンドになってしまって、ポンド高いなと痛感しました…。
旅行の保険には入っていたのですが、今回のことは自然災害なので、保険がおりず、ホテルはJALの方が紹介してもらえましたが、ホテル代などは自己負担とのこと。皆、幸いお金がまだ残っていたのでホテル代やホテルまでのバス代、食事代を払うことは出来ました。
入国手続きの場所は凄い行列でした。何やら係りの人に私だけハガキサイズの何かの書類なのか何かを渡されブルブルして、前に並んでいた英語が話せる女の人に読んで貰いました。
けれどもやっぱり良く分からないものらしく、取り敢えず入国の書類とパスポートと一緒に渡したら良い、というものでした。
入国審査の時にパスポートと一緒に渡して、その時に回収されましたが良く分からないままでした。
○19、20時くらい
ばたばたしていて時間を見ていなかったのですが、ホテルについた時には日が暮れていました。
ホテルは一部屋48か58ポンドだった覚えがあります。私は友達とツインを借りたので割り勘して泊まりました。
私も友達も2人とも拙い英語しか使えませんでしたが、フロントのお兄さんがとても良い人で、分かりやすくゆっくり教えてくれました。英語の有り難さをひしひしと感じました。(イタリア語読めない分からない)
心配していたホテルでしたが、もしかしたらツアーで泊まっていたホテルより豪華かもしれません。部屋にティーパックとコーヒーとミルクと砂糖とティファールがあったことが嬉しくて嬉しくて、沈んで泣きそうだった気持ちが回復しました。
日本時間はまだ夜中だったので、お茶を飲んで夕飯を食べてちょっと落ち着いたら掛けることにしました。
テレビを付けたら地震のことがやっていました。福島のことも、原発についてだったということを日本のNHKの映像のテロップで初めて知りました。海外の記者が日本に飛んでリポートしていたり、オバマ大統領が地震について話している他、いろんな国が心配しているのだということを知りました。
NHKの映像が流れる中、仙台の放送局の地震中の映像で、放送局の人が揺れる中それでも現状を懸命にリポートしているのが凄く印象的でした。
偶然、海外の記者による現場リポートが栃木の私の地元からされ、びっくりしました。街並みは映りませんでしたが、何もクローズアップされないということや、背景の街の電気がついていることから被害が少ないであろうということ、海外の記者が飛べるほど無事な地域であることが分かり、安心してちょっと泣けてしまいました。友達も一緒に良かったねと泣いてくれて、本当に嬉しくて気持ちが楽になりました。
○21時30分から22時
フロントへ向かい、国際電話の掛け方を教えてもらいました。(iPhoneを借りてばからでは申し訳ないし、充電器もスーツケースの中、イタリアとはプラグも違ったので充電出来ないので…)
フロントまで向かう途中、ホテルの人がどうしたのと訪ねてくれました。また酷い英語で、不安と焦りでがくがくしながら「テレフォン、ジャパン」と伝えたところ、分かってもらえたようで、フロントに行って聞いてみなよ的なことと、フロントの場所を教えてくれました。
フロントでもまた「テレフォン、コール、ジャパン」とブルブルしながら言いましたが伝わったようで、部屋からの掛け方と専用のカードの使い方を教えてくれました。
部屋にもどって、日本時間で朝の6時半くらいだったと思います。家と東京の寮に電話を掛けましたがなかなか繋がらない。
友人にお風呂に先に入って貰っている間に、家と寮合わせて20回くらい掛け直し、やっと寮に電話が繋がりました。
東京の寮は被害がほとんど無かったようでした。帰国が遅れること、出来れば家にも連絡して貰えるよう伝え、通話を切りました。ただ地震後に家の母から寮に電話があったらしく、無事そうだったということを知り、電話は繋がりませんでしたが凄く安心しました。
連絡がつくまで友達には心配かけちゃって本当に申し訳なかったです ありがとう ありがとう!
その日はニュースを観て、やっぱり疲れていたのでお風呂に入って眠りました。
3/13成田へ
○9:30(イギリス現地時間)
9時半くらいに起きました。今までのツアー日程が6時起き7時出発だったのと、寮に連絡がついて安心したのかゆっくり眠れました。
家に電話したところ、今度はすんなり掛かりました。お母さんの声が聞けて、凄く安心しました。家族もみんな無事ということでした。家は屋根の瓦が落ちたりヒビが割れたりしているが大丈夫、建て付けが悪いおばあちゃんの家も大丈夫だということを知り安心しました。
○11:00
朝ご飯を食べてフロントへ。化粧道具はスーツケースの中なので皆すっぴんです。スーツケースも預けたままで無いので、朝の準備が凄く楽でした。
空港には11時くらいに皆で向かおうと、同じグループの人たちと約束していました。
チェックアウト時に国際電話のお金が58ポンドくらいで凄く高くてびっくりして痛手でしたが、幸い手持ちがまだあったのと、家に連絡がついたので良しとします。
○12時前
11時17分発の、ホテルから出る空港行きのバスに乗りました。時間を見ていなかったのですが12時前には空港に着けました。
14時からJALの受付が始まるとのことで、ご飯を食べたりトイレに行ったり免税店を見て回ったりしました。
○14:00
JALの受付に向かったところ凄い行列が出来ていました。皆昨日の飛行機に乗る予定だったようでした。10人皆行き合うことが出来、並ぶ途中で空港で過ごした2人にも合う事が出来ました。
受付の人が外国人の人で心配しましたが、友達と隣同士の席にしてもらえました。受付のお兄さんありがとうありがとう!
手荷物検査を済ませ、まだ出発には時間があったので、空港内をうろうろすることに。うろうろしながらまた出会ったりしましたが、ここで皆と別れました。
出国審査も済みましたが、搭乗ゲートがまだ決定していないとのことでした。
うろうろする途中、同じグループの人に合い、16時に決まる予定なので、そのころにJALのインフォメーションセンターに向かって教えてもらうと良いと教えて貰いました。
○16:00
正確には15時50分くらいでしたが、インフォメーションセンターでゲートを教えて貰え、ゲートに向かいました。
無事ゲートを発見、搭乗を待つ中で同じグループの人々と合うことが出来ました。
○17:00
無事飛行機が出発。成田空港に向かい飛び立ちました。行き先が成田空港ではなく関空だったら…と心配していたのですが、無事成田に向かうようでした。
機内ではNHKのニュースが流れていて、初めて日本語で被害のニュースを観ることが出来ました。知らなかったことも、色々知ることが出来ました。計画停電についてもこの時知りました。18時ごろ機内食が出て、その一時間くらい後にはニュースは流れなくなりました。
3/14空港~東京
○13:12くらい(日本時間)
日本時間の9時くらいに二回目の機内食を食べ、13時には成田に着くことができました。
途中余震が起きて、成田に着陸出来なかったらどうしようかと心配していましたが、大丈夫でした。
空港について、無事日本に帰ってこれて安心しました。やっぱり日本が一番だと心から思いました。ちゃんと成田に飛んでくれて、JALには本当に感謝しています。ありがとうございますJAL!
入国審査も済み、スーツケースも受け取りました。換金をしてしまおうと、ユーロとポンドを円に変えました。
しかし空港から出る電車がストップしている状態だという。行きはスカイライナーで来たので、帰りもそのつもりでいました。京成の在来線も止まっている他沢山の電車が止まっていることを知りました。京成線在来が動くのは17時。
変わりに各方面へバスが出ているとのことを、偶然行き会った同じグループの人が教えてくれました。その人たちもバスを使うらしく、私と友達もバスの受付カウンターに向かいました。
○14時くらい
携帯で家に電話しようとしたところ、auが繋がりにくくなっているようで、スーツケースを友達に観てもらい、公衆電話へ。家へ成田についた報告と電車とバスの状況を連絡。
バスも地元近くまで行くものがありました。
心配だし、家族にも会いたいので家に帰りたかったのですが、高速道路があまり動いていない状況で、何時間かかるか分からないとバス会社の状況でした。家までは高速道路を使っても二時間は掛かるので、時間が心配でした。
新宿まで行くバスがあるということ、山手線はゆっくりだけれど動いているとのことで、山手線の駅近くにある寮には帰れそうでした。バスチケットを購入し、寮に帰ることにしたと再び家に連絡。
友達もバスを使って近くまで帰ることでしたが、バスの出発が私の乗るバスより一時間遅いものでした。心配だし申し訳無い気持ちでいっぱいでしたが、大丈夫だよと快く送り出してくれました。
バスを待ちながら飲み物を買ったり、他の友人たちにメールの連絡をしたりしました。共通の群馬が地元の友達に2人して電話したりしました。友達は今は東京に居るようで、群馬の家も家族も無事のようで、元気そうで何よりでした。
○15時50分頃
新宿行きのバスに乗り、出発しました。友達が心配でしたが、約1時間後無事バスに乗れ出発したようで安心しました。
○17:15
途中高速道路が混んで居ましたが、三鷹付近から解消しだして、思っていたよりも早い、17時に新宿駅に到着しました。
なんと表現したらいいのか分かりませんが、新宿はいつもと違う雰囲気で人が溢れていました。JRの改札が分からず、うろうろしながら宝くじ売場のおばさんに尋ねたところ 快く教えてくれました。
JR改札付近は外以上に人がごった返していて、遅延や運休の情報が溢れていました。JRの駅員のお姉さんに山手線の状況を聞くとゆっくりとだけれど動いている模様。
ホームへ向かうエレベーターやエスカレーターが分からず、人も多いためあまり身動き取れないため、近くの階段からホームへ向かうことにしました。
スーツケースを持ち上げて登っていると、二十歳前半の同い年くらいの女の人が運ぶのを手伝ってくれました。有り難くて嬉しくて運びながら泣きそうになりました。階段を登りきった後、「大変ですよね」と笑ってくれました。何度お礼しても足りないくらいだったのですが、電車もすぐ来そうだったので別れてしまいました。名前と連絡先を聞いておけばと今思い返せば後悔していますが、急ぐ中引き留めてもなとも思います。自分も急ぐ中、人も多い中、手を貸してくれて、その心の広さと優しさに本当に本当に感謝しています。有り難うございます。
ホームで待っている間、中年くらいの女の人が物凄い早口で怒鳴るように電話をしていました。最初日本語じゃないのかなと思い、けれども言葉の端々が日本語でした。誰かに文句を言っているようでしたが、凄く怖く、悲しい気持ちになりました。
電車の中も凄く混み合っていましたが、込み合い具合は、いつもの混んでいる時の山手線と同じくらいだったように思えます。それよりも皆苛立ちや不安や焦りの気持ちが漂っていました。大きいスーツケースで申し訳なかったです…。
揺られながら家族や友達や助けて下さった人々の顔が浮かんだりしていました。私も困っている人を見かけたら、出来る限りのことをしようと思いました。
山手線内の電車運転状況で、今までみたことないくらい色々な線の運休や見合わせの情報が流れていました。
無事駅につきました。駅に隣接するデパートは閉まっていて、人も疎らでした。
スーツケースを持って歩くのは無謀そうだったので、近くのタクシー所まで行きました。
タクシーが三台くらい止まっていて、運転手さんと、後ろに止まっていたタクシーの運転手さんがスーツケースを荷台に積んでくれました。
寮に行く間、街やコンビニなどを見ていましたが、建物の被害は全くありませんでした。けれども灯りは暗く、コンビニの棚はすかすかでした。
○18時過ぎ
寮に無事ついて、運転手さんが腰が悪いというのにスーツケースを下ろしてくれました。本当に本当に、助けて貰ってばかりです。嬉しくて有り難い限りです。
寮について寮母さんとちょっと話をして、気持ちがちょっと楽になりました。
部屋は被害がほとんど無くて(もとが汚いというのもあります…)棚の上にあった電話が落ちていたくらいです。半分くらい荷物を引っ越ししていたので、本類や大きい棚や食器が無かったからかも知れません。
家に電話をして、お母さんとお父さんと話をすることが出来、家の状況を知ることが出来ました。同じ市内に住むおばあちゃんとも電話することが出来ました。友人たちからメールを貰ったりして、嬉しさやら不安やら色々混ざって年甲斐もなく声を上げて泣いてしまいました。
○18半頃
夕飯が無かったので何か買いに行かなければと外に行きました。寮母さんが、トイレットペーパーやカップ麺などが全くなくなっていると言っていましたが、本当に空っぽでした。
ドラッグストアのトイレットペーパーの棚が無くなっていて、パンや牛乳・ベビーフードがありませんでした。生理用品は棚半分無くなっていましたが、オムツが空っぽでした。
コンビニはおにぎりとお弁当・パン・カップ麺の棚がすっかり無くなっていました。肉まんやチキンなどはまだ幾らか残っていたので、保存がきく食べ物が無くなっていているのかなと。
近くのマクドナルドがテイクアウトのみ可能だったので買って、コンビニでもペットボトルコーナーはまだあったので、お茶を買ってきました。
寮に帰ってお風呂(動いていました)に入って、ポテトをむしゃむしゃしていたら、寮のご飯が食べられるとのこと。(寮でご飯は食べれますが、2日前に希望を伝えないと食べられないのです)
せっかくなのでマックは後回しにして、寮のご飯を食べました。まだ頭が混乱していて味はあまり分かれませんでしたが、漬け物とお味噌汁が美味しかったです。寮母さんと食堂のおばさんたちに感謝です。
○21時近く
家にメールをしたり、携帯の確認やTwitterを開いたりしました。寮母さんがいるとはいえ、ひとりだし家が心配だしで混乱していましたが、Twitterを覗いたらちょっと気持ちが楽になった気がしました。ひとりじゃないんだなあと、そして頑張っている人たちが沢山いるのだなあと。みんな不安を抱えながら前を向いているんだなあと。
Twitterを覗いたりして、疲れて10時過ぎには眠りました。
3/15
15日は今までの疲れがあったのかひたすら寝てしまいました。途中起きたりもしましたが、すぐ眠ってしまいました。
16時くらいに地元の高校のお世話になっている先生から電話がきて、高校も大混乱だということを知りました。先生も、実家は心配だけど先生は無事のようでした。
その後昨日のマックを食べてまた眠ってしまって、起きたときに親からの電話が来て、話している途中で静岡震源の地震が来ました。
家も大丈夫だったそうで、通話を切った後急いでテレビをつけました。
ニュースを暫く観た後は電気を消して、寝ようとしましたが眠れず、日付変わって朝方に思い出しながらこれを書いている次第です。
思ったこと
不安で大変なこともありましたが、幸いなことに無事でいます。被災時には日本にもいなかったので、一番安全といえば安全でした。
旅行前ニュージーランドで地震もあったので、イタリアはちょっと心配だねと母に言われたのを思い出していました。日本が、自分が離れている間にこんなことになるなんて思ってもみませんでした。
11日の夜、生きなければと思いました。私自身被害に全くあわなくて、恵まれていて、だから家や家族がどうにかなってしまっても、生きなければと思いました。今を生きられなかった人の分も生きなければならないと思いました。
イタリアやイギリスでニュースで流される家々や地震の映像を見ながら、信じられませんでした。飛行機に乗って日本語でニュースを見れて、日本に自分の足で立って初めてやっと、日本の現状を肌で感じることが出来ました。
想像も出来ないくらい辛くて苦しい状況の人々がいるのだと思うと呆然としてしまいます。
被害や未だ続く余震や原発、物資不足で混乱する中、でも皆が前を向いていこうとしているのだと感じました。日本凄い!と思いました。日本凄い!みんな凄い!!
だから大丈夫!とは言えません。やっぱり心配で不安で怖いです。でもこんな日本なら、ちょっとずつでもきっと良くなってくると信じたい、信じます。
私に出来ることは何だろうと思いました。地元の家も心配です。地元は車がライフラインなので、ガソリンが手に入らなかったら…と不安です。東京でこんな状態なので、食料も足りているか不安です。
仙台にいる友達も心配です。住所もメルアドも知らないので連絡先が分からず不安です。
心配なことは沢山あるけれど、今私に出来ることは、出来るだけ普通に生活すること、節電すること、無理しない程度に募金をすること、元気でいることだと思いました。
無事家に帰れて家族に会えたら、お土産を渡して、いっぱい旅行の話しをしたいです。ドイツもイタリアも、ちょっとだけ寄ったオーストリアもイギリスも素敵だった。街は可愛くてみんな優しい人たちだった。病気で入院しているおじいちゃんに、デジカメで撮った沢山の写真を見せたいです。
そしてこうやって書いていることも、書けることも本当に幸せなんだと思いました。暗くなっちゃだめだ。私が暗くなってどうするんだ。
今回色んな人に助けられました。家族や友人は勿論、海外でも日本でも、見ず知らずの人に沢山沢山、助けて貰いました。
旅行前まで気持ち的に沈むことが多くありましたが、そんなことはくよくよするうちに入らないんだと。視野を自分で狭めてはいけないんだと。
夢や希望を持って って難しいことです。不安で悲しくて堪らなくなるし今だって怖いけどなるべく前を向いて、生きて色んな人に恩返しをしていきたいと思いました。
長々と独りよがりな文を書いてしまってすみません。ちょっと落ち着いてきました。
最後に、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り致します。ご家族やご友人を亡くされた方々の悲しみや苦しみ、お心お察し致します。
そして災害現場で救助にあたる人々や原発に関わり奮闘している人々が、どうか無事で、沢山の命を助けた分、嬉しいことが沢山起きて長生きができますように。
災害のため今も苦しい日々を送る人々が早く安心出来る生活に戻れますように。
元の日本に戻りますように。負けるな日本!
2024年の自分がふりかえって
当時のわたしは就職氷河期の学生で、就職先も全く決まらず鬱々と過ごしていました。
就職は決まらないけれど、友達とふたり、卒業旅行はいきたいよね、もうね、行ってすっきりして、そしたらまた就活がんばろう、みたいなことを、話していたような、いないような記憶です。
卒業式は、本来行われるはずだったホールでは行われず、大学内で行われました。
保護者は呼べずに学生のみで、こぢんまりとして、でも大学のことが大好きだったので、最後の日を校舎で過ごせたことは、とても嬉しく良い思い出になっています。
袴で食べた学食はおいいしかった。卒業のさみしさと、無事に卒業式が行われたことへのうれしさと安堵と、この先の期待と不安とが、ぜんぶまざっていた。カメラを構える袴姿の友達と、明るい食堂を覚えています。よく晴れた日で、暖かくて良い日だった。
講義で使っていた教室で貰った卒業証書は、震災の思い出と、その後の引っ越しと卒業、やっと決まった就職先、ちょうどその日病院でなくなった祖父のこと、こもごもが混ざったものとして、今もあります。
あれから13年が経って、13年の間にもいろいろなことがあって、世界も身の回りも大きく変わって、あのころ当たり前にそこにいた祖父も祖母も母も父ももういないけれど、けれど3月11日に思った「生きなければ」という気持ちは未だに腹の底の奥にあって、時々浮上しては、感慨深く思います。
3月11日に思いを馳せながら、今について書くのはなんだかとても難しく、けれどもどうか、世界が健やかにあれと願うばかりです。
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