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朝日新聞「フェミニズム『感じよく』存在感」についての私的解説②ーインターセクショナリティ

朝日新聞のフェミニズムに関する記事を、知っている男性から「解説してほしい」と言われて答えた内容を記事にした第2回です。
今回は、2つ目のキーワード「インターセクショナリティ」についてです。

1回目はこちらです。

さて、インターセクショナリティの辞書的な意味はこちらです。

差別について考えるとき、「人種や宗教、国籍、性的指向、性自認、階級、障害など、一人ひとりの持つ属性や、それによる差別の構造は多層的で“交差”している」という考え方。

「複合差別」という言葉を聴いたことがある方もいらっしゃるのではないかと思う。

例えば、私という人間を属性で説明するとします。
私は女性であり、日本人であり、異性愛者であり、シスジェンダー(戸籍や身体的性と性自認が一致している)であり、未婚であり、子どもを生んでいなく、正社員であり、北海道の札幌という地域に住んでおり、身体的な障害はないと自覚しており、被害経験は固有にそこそこあり、…。

これらの属性の中には、マイノリティの性質もあれば、マジョリティの性質もあるわけです(ここでのマイノリティ・マジョリティ、というのは少数派・多数派、という数の問題だけではなく、パワーを持っていない・持っている、という意味です)。
私は女性の活動をしていますが、一般的に私たちの社会では「女性であること」はマイノリティとされていますが、「異性愛者であること」はマジョリティとされています。
なので、私という存在はマイノリティとマジョリティのミックスと言えるかもしれません。
そして、誰もがそうだと思いますが、そのバランスはきっとかなりグラデーションが幅広だと思います。マジョリティ要素ばっかりの人もいれば、マイノリティ要素がたくさんある人も。
そして、もちろんマイノリティ要素が大きければ、私たちの社会では生きにくい、そしてその生きにくさは、個人の問題というよりも、その属性を生きにくくさせている社会・環境の問題、と考えられます。

私が、「女性の人権を!」と言ったとしても、その「女性」には多様性があるのです。
よく言われる、結婚している・していない、子どもいる・いない、正規・非正規・無職、ということも幅広です。
民族、生活状況(貧困か裕福か)、性的指向、住んでいる地域、…というのもさらに幅広です。
私自身はマイノリティでもありマジョリティでもあります。
そして、私自身は被害者でもあり加害者である、ということです。

20代の頃、DVサバイバーの話を聞く小さな勉強会がありました。
サバイバーの方の話を聞いて、あまりのひどい扱いに悔しくなり、涙が溢れてきました。
その時に、他の参加者の女性から言われました。
「なんで泣いているの?かわいそうだと思ってるの?私もDV家庭に育ったけれど、親には離婚してほしくなかったし、DV被害者に簡単に別れろ、とか言ってほしくない。同情されているようで不愉快だ」と。
責められている気持ちと、自分の中にDVサバイバーを下に見る意識があったのだろうかとショックを受けました。
この経験はすごく大きな意味があって、今の自分の考え方の基礎になっていると感じています。
自分がマジョリティの立場である属性において、マイノリティの人にどのようなスタンスで関わっているか。そこに自分との交換可能性、自分もその立場になる可能性があるのか、その時にどんな社会であってほしいのか、ということを考えるようになりました。

北京女性会議に出た女性の話を聞いたときに、こんな話を聞きました。
「先進国と途上国の女性たちが一緒に闘えるかどうかという課題を突きつけられた」という話。
途上国の女性たちは、確かに性差別的な地域の慣習や文化、政治的構造にも悩んでいるけれど、同様に先進国の搾取にも悩んでいる、と。
同じような葛藤を、アイヌ女性と話していても突きつけられます。
性差別も大きな問題だけれど、そもそものアイヌ民族への差別を考えると、和人女性と一緒に闘えるのか、という視点。

一方で、自分がマジョリティの立場にある時、加害者意識があるせいで、個人的にも対等な関係を築きにくい状況はあるとも思います。
でも、社会の制度や環境整備するレベルと、個人として関係を築くレベルは分けるべきだとも思います。社会における力関係は知っておく必要があるし、変えていくための行動を起こす責任もあるけれど、個人の関係に持ち込んで不必要に背負いすぎないようにしようと思うのです。
私には仲良くさせていただいているレズビアンの当事者団体の女性たちがいます。
彼女らとは、「異性愛者中心で同性愛者に理解のない社会を変えていかなければならない」、ということを話し合うことができます。
彼女らとの関係においては、「ごめんなさい」という気持ちもありつつ、加害者性をあまり背負わないようにしようと思う気持ちがあります。

インターセクショナリティの問題は、日々出くわし、日々自分自身の考え方、価値観、他者との向き合い方をどうするんだ、と突きつけてきます。
これからもきっと悩みながら、変わっていくものだと思います。
私自身も、いつマイノリティ属性を持つか、またマジョリティ属性を持つか(これはあんまり今後増えなさそう。。)わかりません。
けれど、ずーーっと考えていきたいと思うのです。


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