映画『サユリ』を観た感想
※映画の内容により、性暴力への言及を含みます
吹き抜けがある家を建てる人って、家族仲が悪くなったときに吹き抜けで常に他人の気配がするのがどういう効果を生むか全く想像していないという偏見がある。
吹き抜けとでかい窓の家で家族が険悪だと本当に最悪。生まれ育った家がちょうどそんな感じで、一階にいても二階にいても吹き抜けが常に家の中に不機嫌な誰かがいることを伝えていた。ベッドの下とか押し入れの中の押し入れと屋根裏の間とか、クローゼットの中とか、そういう所に隠れて無理矢理眠ることで家族のいる時間をやりすごし、親が帰ってくる前に家を出て郊外の何もない道を真夜中延々と歩き日付が変わって数時間したら親が寝付いた家に戻りまた押し入れの中に隠れる。
そういう子供時代の経験があったから、悪霊が棲む家で起こる嫌なことに大変臨場感がありました。
吹き抜け、円満な家庭をすでに持っている人にとってはきっと家をより楽しくさせるものとして機能するのだろうが、自分の感情を制御できず、自分の機嫌をよくするために家族に感情労働を強いて楽しい家庭を作ろうとするタイプが形から入って楽しい家庭を作ろうとするときに欲しがる道具の一つって印象が強く、吹き抜けがあるってだけでちょっと身構えてしまう。掃除とか照明や窓の管理も大変だしね。
虐待が背景にあった子供の怨霊が家族は直接殺さずに家に引っ越してきた関係ない奴を呪い殺してた展開、家の中に問題があるのに外に出られなくなり不登校になることで外部に助けを求める機会を失い、自室にこもることで本当は逃げ出したいような家から出られないという状況と相まってめちゃくちゃリアルに感じたし、子供ってほんとにそうなんだよな……。サユリにとっては家の中が全てで家から出られないんだ。それは何も地縛霊とかそういう話じゃなく、生前からそうだったんだろう。不登校やひきこもり、一旦やると自分の存在そのものへの疚しさや羞恥でどんどん外に出づらくなり、外に出た経験のなさでますます外に出られなくなるから。
幼少期から生殺与奪を握られて餌付けされてきたことによる生理的愛着って理性とか合理的な思考を超えて判断を縛るし、だから毒親による支配って子が思春期超えて肉体的な力で勝っても続くことの方が多い。サユリの行動にもやつくって感想見たけど、外部から見て「なんでそんなことするの?」って思われるのも含めてリアルだなあと思いました。人間ってストレスや苦痛で判断能力が大きく減衰するから、外野から見たら不条理で自縄自縛に見える判断も全然するんだよな。虐待親を殺すまで行っちゃった子供、ずっと、そんなことするぐらいだったらもっと早く逃げるなり何なりすればよかったのにと言われ続ける。ゾウですら子供の時に脚に鎖をつけられたら長じてなお人間に従うし、幼少期に適切な経験を積む機会を奪われると不適切な養育をする親となんとか折り合いをつけるのは本当に難しい。
以降ネタバレ
性虐待を行っていた父親、助けを求めても見て見ぬふりをした上に虐待が原因で病んでひきこもったサユリに「元通りの仲の良い家族に戻りましょう」と被害者ぶって涙ながらに懇願できる厚顔無恥な母親、サユリから庇われたために姉が何をされていたか知らずひきこもりの姉を家族の汚点と考え、両親に大事に扱われてきたので姉が両親を殺そうとするとすごい瞬発力で反撃してくる妹。
この三人に対して父と妹は殺せるけど母は殺せないというのはそれぞれの悪さに見合った処遇とは言えないけど、でもそんなもんなんだよなあ。自分が庇って性虐待を一手に引き受けたが故に父親の邪悪さを知らず屈託なく育った妹を許せなくなったり、自分を守ってくれなかった母親に復讐するのではなく愛を乞うたり。サユリは復讐者として冷徹に報復を完遂して自分の人生を生きたかったのではなく、母親に守ってもらえず自室に引きこもって醜くなろうと髪をめちゃくちゃに切り太るためだけにスナック菓子を食べ続けたあの日から動けなくなってしまった子供で、多分それ以降成長したり変化したりするような経験も積めず、ただ鬱屈だけを溜め込んでいったんですよね。サユリは母親に守られる愛された自分に戻りたかっただけで、悪霊としての活動全部が単なる理不尽な八つ当たりでしかない。
でもこれ、よくあることなんだよなあ。暴力的な父親や子供を感情のはけ口にする母親を憎んでいたはずなのに、自分が親になったら子供に同じことをして、同じことをしてしまったので親を肯定することで自分を正当化する人はそこそこたくさんいる。憎むべきものを憎んで、傷つけなくてもいいものを傷つけないでいる、それだけのことをやっていくのは本当に難しい。
今回も、嘔吐と霊体ミミズと物理暴力、性暴力により生じた禍根で白石監督の作風全部乗せって感じでしたね。さだかやの時も思ったけど、ノーカット風フェイクドキュメンタリーという枠を取っ払った白石監督作品はむしろカメラワークが自由になって演出力が爆上がりしている。コワすぎで名声を得た監督ではあるし、今回の建築物の構造を生かしたシチュエーション作りにはコワすぎシリーズでのノーカット風編集で建築物の構造を見せてきた技法との連続性を感じたけど、カメラワークや画面の構図という点ではフェイクドキュメンタリー形式は拘束具でもあったよなあと思いました。コワすぎシリーズから入ったファンだしフェイクドキュメンタリー形式も好きだけど、それだけの人ではないというのも言っていきたいところ。
白石監督、オカルトの森、怪奇ワールドコワすぎ、サユリと、ホラーで定番であった「性暴力被害者の女の霊の祟り」に対して、怨霊そのものじゃなく彼女を怨霊にしたものに視点を向けようとしていこうとしてるけど、このテーマがどういう形で表現されていくのか、今後が気になるところだ。
『サユリ』、原作を忠実に映画化するというよりも、白石監督の中でずっと続いているらしい「怖い女を怖い女にさせたものはなんなのか」というようなテーマをやるにあたって原作を借りてきたって感じで、正直そこは原作ファンから違うよねって言われても仕方がない感じではある。
でも、個人的には戦慄怪奇ワールドでの、いかにも危険な怪異として登場した、「強姦されたせいで気が狂った少女のなれの果てと語られる赤い女」が、恋人と自分を犯した男と戦う力がほしくて怖いものになろうとした女の子だったという展開も、その子と一緒に元凶と戦って最後はその子がこちら側に帰って来るという結末も(怪奇ワールドはエンディングのコワすぎ音頭が後日映像に編集が施されて制作された作品であることを示唆しているから作中での事実はみんなが現実に帰還するハッピーエンドであって、その後の世界滅亡オチは売れるためにはとにかくショッキングなものが必要だと思っている工藤Dによるやりすぎな後付けフィクションだよ派)、正直こんな現実の中にこういう物語を作る人がいること自体に救われたので、『サユリ』のこれに関しても映画は別物だが別物として楽しめたよぐらいになっちゃうな。
基本原作の骨子となるようなテーマ自体を変更して、印象的な表層だけを引っ張ってきたメディアミックスってあんまり好きではないのだが、『来る』と同じく、宗旨的には全肯定できないけどでも一本の作品としてみるとかなり好きなんだよなあという枠に入りました。
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