見出し画像

【26回】学校教育相談2019年2月号・宇野先生の連載を読む(190116)

○宇野弘恵先生の実践

学校教育相談2019年2月号が届いた。パラパラめくって気になる部分に目を通す。
リレー連載「小学生との対話 泣き叫び試してくるA君」を読む。

旭川の宇野弘恵先生が書かれている。宇野先生といえば、高学年女子、低学年の指導に著作がある。

厳しさがある。けれども、電気カーペットのような快い温もりで包み込まれている環境の中での厳しさという「予想」を立てている。「予想」というのは著書を読んだり、お話を伺ったり、本人にお会いしたことはあっても、教室の様子を拝見したことはないから「予想」。

こうなると、僕が知っている実践なんて、「予想」「想像」ばかりになるのかな。読書は自分の中にある情報で解釈するから。
おっと、余談だった。


○「泣き叫び試してくるA君」のこと。

その1 入学式の場面。

とうとう入場が始まっても、A君は来ませんでした。(p61)

「この子にとって大事な入学式に参加させられなかった」という思いと同時に、「あとで同僚や管理職、保護者に何を言われるかわからない…」という自己保身の考えが浮かぶのが僕。
この場面では同僚を信じて、結果、A君は立派な入場を果たす。普段どれだけ、同僚を信頼し、共に仕事をしているか。ふーっと深呼吸。


その2 A君との関わり


授業中に泣き、要求を訴えるA君。A君の行動の目的を見取り、冷静に授業を進める宇野先生。
過剰反応せず授業を進めるには、しっかりと目的をもって子どもと関わっているから。A君の行動は、「予想」だが、行動バースト…つまり、泣き叫ぶ行動はしばらく増えたのではないかと考える。このとき、教師は迷うものだ。イライラしたり、愕然としたり。まわりの子どもの不満を噴出する。それでも、ぶれずに対応し続けるところ。そのような人になりたい。

宇野先生の授業中の対応とともに大切なのは、A君の存在を認める関わりをし続けたことだろう。
詳しくは、実際に誌面を読んでいただきたい。


○例えば自分の経験の場合。


(大きく内容が変わらない程度に、加工している)
ある子どもが、スポーツの行事で、試合に出た。
他の子どもとちょっと手があたった。試合は続く。しかし、試合の最後には静かに泣いていた。

試合と試合の合間も一人で泣いていた。いつまでたっても泣き止まない。さめざめと泣いている。
そばに行き、泣き止むのを待った。
いくらか時間がたったあと、落ち着いてきたので、聞いてみた。

 「手が当たったのが、痛かったの?」
  首を左右にふる。

 「試合に出るのが、嫌だったの?」
  首を左右にふる。

 「試合に出るのが、怖かったの?」
  首を、縦にふる。

 そうか、こわかったのか。

 「そうか。こわかったのか。よく最後まで試合に出たよ。がんばったね」

 この後、次の試合も出た。今度は笑顔で、試合を終えることができた。

 この関わりでは、この子どもが泣いた理由を共有し、存在を認め励ました。
 おそらく、周りの子どもは、この子どもが泣いていることに対して、何か思うところはあるだろう。
 ゆえに、周りの子どもへのフォローが必要だったのかもしれない。また、こわかったのに再チャレンジしたことも認め、何かこの子どもや周りの子どもに返すことができたのかもしれない。

 むしろ、周りの子どもが、この子どもをフォローしたり、泣いていることを受け止めてくれるような世界になったら。

 僕の弱点がわかる。
 僕とこの子どもの関係を作ること。1体1の関係は作りやすい。
 しかし、僕が影となり、この子と学級の子どもとの関係が強くなるような関わりが弱い。

 ここは僕自身が、承認を子どもに求めており、僕が子どもに支えられることで、貢献感を持ってしまっている可能性が強い。可能性というより事実だろう。
 だから、僕は僕で、僕なりに貢献感を持つようにすること。子どもに依存するのではなく、教師という職業として、必要な立場を取ることができるようにすることが、これからの課題になるだろう。