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北海道胆振東部地震の単純な記録と、ショックだった一つの言葉と、二つの教訓

2018年9月6日、北海道胆振東部地震が発生した。その24時間、忘れないうちに感じたこと、動いたことを記録していたので、公開しようと思う。また、巻末に有料で「その時言われたショックだったこと」「その時考えたこと」というのをまとめた。

2020年4月10日現在、新型コロナウイルスの被害はますます拡大している。東京では緊急事態宣言が発令された。北海道胆振東部地震の時、ぼくが体験したものをはるかに上回っている。こういう時だからこそ、過去の知見で使っていただけるものがあるのであれば、これほど嬉しいことはない。

0.地震前

ちょうど9月4日から6日で、教育システム情報研究会と初年次教育学会が札幌近辺であったため、前職(嘉悦大学)や特任講師先(宝塚大学)の同僚が多く来ていた。その日は、午前一時まで家の近くの喫茶店でディスカッションをしており、明日は初年次教育学会の二日目に行こう…なんて話をしていた。

1.地震発生直後(午前3時頃)

「お、大きいな!」と思い目を覚ました。でもこれぐらいはたまにある程度。そこからもう一度段階強くなる「おお…」と思っていたら、さらにもう一段階強くなる。一人で「これはまずい!これはまずい!」と叫ぶ。そうこうしているうちに揺れが一旦収まる。

最初にやったのが、速報が入りやすいTwitterを使った情報収集であった。震度は6強、札幌は5強と出ていた。…なんだそこまで大きくない。大きく感じたのはマンションが免震構造だったからかな?などと思っていた。さほど大事と思わず、もう一度眠りに落ちた。

2.起床後(午前5時頃)

朝起きる。停電していることを確認し「これは…」と直観。ネットにつなごうとするも、Wi-Fi(UQ WiMAX)が繋がらないことを確認。携帯回線で接続し、大事になっていることを確認。震源地は厚真町であった。厚真町は、ちょうど2日ぐらい前に、Twitter上でやりとりしていたこともあり、心配になる。

来道していた友人たちに連絡。自分が安全であること、都市交通の情報共有(鉄道網の不通、丘珠空港の有無、新千歳空港の状況など)を伝える。友人のうち、東京からの同僚が立ち往生をしていたことから、自宅へお招きする。

とはいえ当時は、すぐに(お昼までには)復旧するだろう、と油断していた。

3.朝のはじまり(午前7〜8時ごろ)

道外の知人友人から連絡が相次ぐ。この時はとにかく心配させないことを念頭に「大丈夫ですよ〜」のノリで返信をしていた。ただ今思えば、不安で即レスをしていたように思う。

同僚が自宅に到着。ちょうど良かったので近くのコンビニで朝食を購入に向かう。コンビニは真っ暗。出勤中?の人たちで溢れていた。水やパン、ご飯は既に売り切れ。仕方がないので、ポテトチップスやピーナッツなどお腹のたまるもの、お茶、お酒を買っていた。酒を買ったのはすぐ復旧するだろう、と踏んでいたから。

食事を買い込み、朝食を同僚と取りつつ、遠隔の友人に連絡を取る。丘珠空港の存在や(当たり前だが)学会中止の一報を共有。そうこうしているうちにWiMAXの電源が切れる。このままでは何もできなくなる…と焦る二人。特に同僚は今後の滞在先や航空券の確保ができていない。そんなところに、札幌市役所で充電できるとの一報が。最低限の荷物を持ち、外出。

4.市役所へ(午前11時頃〜午後2時頃)

まずは家から近い(札幌市)中央区役所に向かうが「こちらでは充電受付してません」のチラシが。仕方なく、タクシーを拾い市役所へ。途中、自衛隊の車などがあることを確認。

市役所着。しかし、長蛇の列…!

どうやら50人ずつ30分程度の充電を実施しているようだ。とはいえ、他にやるべきことも思いつかずとりあえず並ぶことに。

幸い、市役所はWi-Fiが通っている。これを使い再度連絡を開始。前職の同僚の一人は丘珠空港へ、もう一人は奇跡的にレンタカーを確保し、親族の家に向かうとのこと。現金が足りなくなる可能性に備え、東京にいる一般社団法人の同僚に経費精算を前倒しで依頼。同時に、東京の職場の同僚と合流。とりあえず話ができて一安心。後ろに並ぶのはトラブルになりかねないと思ったので、列の外で情報収集を依頼。ここらへん朝からいる同僚とは会話は途絶えていた。まあ、喋って体力を使うべきではない。

並びながら一時間、やっと市役所の中へ。しかし、市役所の中が暑い…。徐々に調子が悪くなってきた。同僚に列に並ぶのを代わってもらい、体力回復につとめる。ベンチの横には今回の地震が報じられていた。何か光明になる情報はないか、と聞いているが、特になし。15分ぐらい?意識を失いつつ再度行列へ。

しかしやはり体調は戻らない…。もう一度代わってもらったがやはりダメ。このまま待っても充電できるのに2〜3時間かかり、それでも30分程度の充電…。もうダメだ、家で休もうと決め、同僚にその旨伝える(マジすか、と言われたが)。今思えば、この判断は良かった。

5.限界(午後2時頃〜午後5時頃)

札幌市役所を後にし、歩いて自宅まで戻る。何か、役に立つ情報はないか、とさまようが、何もない。すすきのはどこも空いていない。

しかし何か、まともなものが食べたい、まともなものってなんだ?乾き物じゃないもの?と思いコンビニに入る。しかし冷蔵食品は時間が経ち、買うことができなくなっていた。これで代わりになるかな、と思いソーセージを購入。

途中知人と偶然出くわし、二、三の会話を交わす。Facebookで「無事です!」と書き込んでいた札幌の同僚は今日海外に飛び立つ予定だったらしい。

自宅に到着。もう限界、少し横になろう。1〜2時間ぐらい寝ていれば、いろいろ解決するんじゃないか…などと考え、いや感じていた。いつ電気が戻り、またすぐに切れるかもしれない、WiMAX、iPad、パソコンを充電に接続して、眠る。外の音が聞こえるよう、窓は開けていた。同僚が戻った時、私を起こしてくれるよう、自宅の鍵もU字ロックだけにしておいた。

外の音、警笛とクラクションが聞こえる。その音を聞きつつ、意識が遠くなっていった。

目が覚める。何時間眠っただろうか。少し薄暗くなっている。時計を見たら17:00過ぎだった。iPadやMacの充電ランプは消えたまま。警笛とクラクションも変わっていない。だめか…。17:30に同僚からガラケー(唯一生き残っていた)に「今充電中です」と連絡が来る。待たなくてよかった。

とはいえ暗くなる前にやれることをやらないと…。そういえば札(幌)駅付近は復旧していると聞いた。このまま真っ暗になったら何も出来ない。とりあえず行ってみよう。家の前でタクシーを捕まえる。運転手さんからは「札駅に行っても動いてないよ」と制止されるが札駅に向かう。札駅の近くは、ちらほらと電気が着いている。充電ができるかもしれない。

6.札幌駅へ(午後5時頃〜午後7時頃)

札駅に到着。コンセントというコンセントは先客が使っていた。押しのけて使うことはできないし、押しのける体力もない。そもそも家がある私は幸せで、彼らはもっと大変だろう、そんなことも考えていた。

ここで一つだけ分かったのが「明日も午前中はJRは運休」ということであった。いや「分からない」ということが分かっただけでも良いじゃないか。

札駅には収穫なさそうだ…。電気があれば何か収穫があるかもしれない、と思い近隣をさまようことに(今思えばあれは体力を奪っていた)。近くのビルで人溜まりを見つけた。案の定、充電の提供だった。5分だけなら意味はないのでスルー。

バス停を見かける。もしかしたら明日も新千歳空港はダメかもしれない。その場合はこのバスで函館か旭川に行くことも考えねばならない…。先を行く。

途中のホテルはキャンドルを照らし、宿泊客限定の夕食サービスをしていた。この段階で一番欲しいものは温かい食事であった。羨ましい。

途中、信号待ち(ここは着いていた)の少年が「一部電気戻ったらしいよ」と話していた。ちょっと気持ちが軽くなる。さまようのを止め、自宅に戻る。

札駅付近は明るいがすすきのに向かうにつれ、闇が戻る。いつものジムのあたり(西8丁目)は真っ暗であった。真っ暗な街を、撮影するもの多数。

狸小路に入る。炊き出しをやっている店舗がいくつかある。並ぶ体力がないので、横目で通り過ぎる。狸小路七丁目のシュラスコの店も鉄板で肉を焼いて売っていた。遠目で見ると、闇の中に白い煙が立っていた。美しい光景だったが、あまり感動していない自分に、感性の劣化を感じたりする。

アーケードを越え、狸小路を歩く。なにか売っている店はないか…。あった。ホタテとニシン、焼きトウモロコシを売っていた。ありがたい、ただただありがたい…。もうすぐ帰ってくるはずの同僚の分も買い込む。話を聞くと、オータムフェス出展のため、札幌に来ていた人らしい。この震災によって1000万円以上の損失と聞く。

7.自宅にて同僚を待つ(午後7時頃〜午後8時頃)

自宅に戻った。暗くなった非常階段は真っ暗で、何階か分からなかった。疲れで、多少フラフラしていた。家に戻っても、心も体も休まらないだろうが、それでも戻るしかない、という感じで自室にたどり着いた。

家に戻りベッドに横たわる。明日をどうするか。もし新千歳空港が動かない場合、どうすべきか、決めておかねばならない。しかし、ここにいても自分ができることは限られている。思考力が低下しているのがわかる。であれば、自分にできることは「なんとしてでも茨城に行く努力」をすべきだ。行動は決まった。

私がいない時間の準備をしよう。荷物を整え、同僚のために布団や備品の整理をする。私がいない間、少しでも休んでいただこう。水しか出ないが、体を丁寧に拭き、頭髪については水とシャンプーで洗った。本州に行っては不潔の言い訳はきかない。

大体の準備が終わり、ベッドに横たわり10分ほどで、同僚から下にいるとの連絡。いいタイミングだ。

8.就寝(午後8時頃〜午後9時頃)

同僚に明日の予定を伝えた。「マジすか」と言われつつも理解頂き、自宅の使い方を説明した。お互い疲れているのだろう。特に話をすることもなく、寝よう、ということに。

9.電源復旧(9月7日 午前4時前)

前職の同僚の一人はそれを利用して無事その日のうちに帰れたようだ(丘珠空港→釧路空港→羽田空港)。良かった。

当時の記録はここで、終わっている。上記については地震名(北海道大地震⇒北海道胆振東部地震)以外は手をつけていない。「生の記憶」は「編集された情報」より情報量が多く、時としてより役に立つものであると、僕は思っている。その意味で、被災しながら書いたこの文章は、とても意味があるものだと思っている。

さて、有料ページでは「その後の話」と、今振り返って「これはよかった」という二つのこと、本州で言われた「ショックだったこと」をお伝えします。色々とまとめていたら、合計2600文字以上になりました。こちらはあくまで「編集された情報」。いつも通り、投げ銭感覚でご購入頂ければ幸いです。

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