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「寄り添えない者」へ花束をー選択的夫婦別姓の事例からー

長年、「多様性」という言葉は「いいこと」として考えられて来たけれど、実際に多様性が増してくると色々な摩擦が生まれるもんだな、と痛感している。色々と理由はあるんだろうけど、その大きな理由の一つに「自分とは違う者が隣にいることも不快」と思うケースがあるからなんだと思う。

その事例で思いつくのが最近、盛り上がっている選択的夫婦別姓のこと。先日、自民党の第5次男女共同参画基本計画の最終案から「選択的夫婦別姓(氏)」の文言が削除されてしまった。まあなんとなくわかると思いますが、ぼくも選択的夫婦別姓は大賛成。これまで様々な形でロビイングされていたサイボウズの青野慶久さん達の労力が実を結ばず残念でならない。


しかしその一方で「選択的夫婦別姓賛成派の人が、反対派のこと全く理解しようとしない」ケースって結構多いと感じていて、これは今回のテーマである「多様性のめんどくささ」が表に出ている良い事例だな、って思う。はっきりいって「分断」が生まれてしまっている。

選択的夫婦別姓賛成派による煽り

選択的夫婦別姓賛成派の方が、反対派の考え方を気づかぬうちに煽っているというか、挑発的になってしまっている事例というのをたまに見かける。

例えば、この記事では「親子別姓だと子供がかわいそうだ」という反対者の意見に対して自分と同じ考えの記事を引用して「困ることはない、以上」と切り捨てている。おそらく困らなかった人も多いんだろう。だけど、反対派にとっては「そうじゃない人もいる」って言うこともできるし「私は辛かった」って反論できる反対派もいるだろう。特にこの「私は辛かった」って反論できる反対派の人は、自分の辛さを無視されたような感覚になるんじゃないだろうか。実際に、選択的夫婦別姓によって不幸になる人が全く一人もいない、ということはないだろう。じゃあ、なんで田島は選択的夫婦別姓に賛成しているのかといえば、単純に救われる人の方が多いと思うからだ。

これなんかも顕著かな。またもやサイボウズ青野さんの記事になってしまい、大変申し訳ないのだけど、一般人のツイートを見るともっと煽っている記事はツイートを検索すれば、すぐに見ることができる。

「姓名を選択すること」を「ラーメンを食べること」は、さすがに違うものじゃないか。ラーメンをいつ誰が食べても迷惑しない。一方で、夫婦の姓名が別の人が普通になったら社会が大きく変わる。その社会が受け入れられない、という感覚は賛同できないけど、そういう考えもあるかな?程度には理解はできる。選択的夫婦別姓反対派の人のツイートなどを見ていると、雑な事例だが「道路を美しく保つ精神」みたいなものと近い感覚で語っているように感じる。「ゴミを自由に道路に捨てられるようにして、手元を軽くしたい」という欲求を許したら社会が大きく変わってしまう、だから反対、という感じ。だから反対派にとっては「したくない人はしなきゃいい(=選択制)」だからって賛成できる訳ではないのだろう。

そもそも当該記事において前提としている、下記こそ議論が必要だろう。

1. 一人ひとりのニーズを尊重しよう。(多様な個性の尊重)
2. 社会の変化に合わせてルールを変化させよう。(生成発展)

「別姓にしたいというのは、単なるわがままである」
原則1に反します。ラーメンを食べたい時に食べられるように、別姓のまま結婚したいカップルは別姓のまま結婚できる社会を作る。わがままを受け入れようとする変化は進歩です。

選択的夫婦別姓反対派の人から「生き過ぎた個人主義の弊害」という言葉をよく聞く。1を前提としてしまうと、そもそも擦り合わせる所は不可能であるように思う。「多様性を認めない多様性」にどう向かい合うか、が求められているのだと思う。

それを踏まえて田島の考えを語ると「全ての人が賛同はしないことを前提に進む」だ。選択的夫婦別姓は進めるべきだし、紆余曲折はあるが世論を見ると進むと思う。ただ、自分が信じる考えや行動が、誰かを不幸にすることだってある、という謙虚さは忘れないでいたい、と思う。少なくとも「多様な価値観」を認める社会においては。

共感し得ない「寄り添えない者」にどう関わるか

Twitterブーム全盛期の頃(2018年ごろ?)、で「共感する者同士で面白いことをやろう」っていう声が非常に増えた。これ自体は悪いことじゃない。共感する者同士なら説明コストも少なくて済むし、意思決定もスピーディー。僕が経営する一般社団法人MRSがまさにそう。誰も敬語使わないし、雑談中は酷いことばっかり話し合ってるけど、他の団体で二ヶ月かかる議題を、30分の集中した議論で結論を出して進めることができる。議論の質は大規模な組織よりよっぽどこの方が良いことが多い。だから共感する者で固まるのは賛成。

しかし、共感する者だけが社会ではない。そこが共感することが難しい「寄り添えない者」がいるならば、どのように向かい合うか、考える必要がある。しかしこれはとても難しい。「寄り添えない者」を「自分より劣った者と見做すこと」、「煽ること」、「罵ること」、「無視すること」は身近な場所だけでなく政治や社会など色々なところでも見かける。

「夜の街」が話題担っている今年の7月頃、西村経産大臣は「愛する人の命を守るためにも、心からお願いします」として飲み会の自重を求めたことがあった。

しかし、ホストやキャバ嬢に入れ込んでる客にとっては、歌舞伎町に行き、「担当」に貢ぐことこそが「愛する人の命を守る行為」になる。「客がこないから、このままだと生きていけない、お店に来て助けてくれ」とLINEが入り、それに対して応じているに過ぎない。すなわち西村さんはホストやキャバ嬢に入れ込んでる客という「寄り添えない者」の存在を無視したのだ。もし、西村さんが「寄り添えない者」への眼差しを向けるのであれば「国を新型コロナウイルスから守るため、愛する人の命を犠牲にしてください」あるいは逆に「お金だけ貢いでお店には行かないでください」などと言わねばならない。これもまた冷酷な発言だし、政治家としては正しくないのかもしれない。だけれども、存在を無視することで綺麗な言葉を並べるよりずっと誠意があると僕は思う。

ネット上のコミュニティが成熟したことで、共感する者とつながることは容易になった。しかし、その一方で、我々は共感し得ない「寄り添えない者」とのコミュニケーションが下手になったのではないか。それが、今日本だけでなく様々な国で発生している「分断」の原因なのではないか。

ぼくは「寄り添えない者」に対して、敬意ある態度を取れる人でありたい。これは「寄り添えない者」の要求に応じる、ということではない。時には「あなたの悲しみ、痛み、苦しみはわかる。だけど、今回は負けてもらう」と、その存在や精神を認めた上で、戦い、あるいは「寄り添えない者」から何かを奪うこともあるかもしれない。だとしても、「寄り添えない者」の存在には敬意だけは忘れない存在でいたい、と思う。

まとめに変えて、二つ作品を紹介したい。

JRというアーティストの「Face 2 Face」というプロジェクトだ。JRは世界各地で大判の顔写真によってプロジェクトを展開する。今回のトップ画像につかったのもJR。これは下北沢の今は存在しない「下北沢駅前食品市場」で展開されていたものを僕が撮影したもの。2014年の写真。

この作品において、JRはイスラエルとパレスチナに趣き、現地の人たちの笑顔を撮り、巨大な写真を現像し、それを交互に並べ両方の街に展示したのだ。当時のイスラエル人とパレスチナ人は、普段は紛争相手として殺しあう「寄り添えない者」同士だった。しかし、作品を通して双方の笑顔を見せることで、「寄り添えない者」の存在を認めることに繋がる。もちろんそれだけで紛争が解決する訳ではない。だとしても、美しいプロジェクトであると思う。JRは以前、ワタリウム美術館で個展が開かれたことがあるので、その時の図録も紹介。

もう一つは映画。今年公開された『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』はまさに三島が、思想的に「寄り添えない者」である東大全共闘に対する敬意を払う三島由紀夫の態度が示されていた。

ネタバレになってしまうので多くは語れないが、映画中のインタビューで三島は東大全共闘の大学生たちを否定することはなかったという。映画の中でも当時の映像が使われていたが、「寄り添えない者」に対する敬意が伝わった。

「Face 2 Face」は2007年、三島の東大全共闘との討論会に至っては1969年の話。どちらも遠く昔のものではあるが、共感し得ない「寄り添えない者」の存在を認めず、次々と分断を生んでいる2020年の我々が学ぶべき点は多いのではないか、とぼくは思う。

本文はこれで終わり。今日のおまけは、活動(というかMMM)の中で、田島が気づかなかった「寄り添えない者」について。個人的には自らの無知を晒す、恥ずかしくも自戒を込めたおまけ話です。例によって、気軽に書いておりますので、あまり期待せず、お年玉感覚でご購入いただければ幸いです。

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