十字架につけられた強盗はなぜ救われたのか
はじめに
聖書には、イエス・キリストの右と左に十字架につけられた強盗が出てきます。
この強盗は悪を行い、救い主まで罵ったのです。
けれど、このうち一人はパラダイスへ行くことが保証されました。
一体なぜでしょうか。
聖書から慎重に検証してみましょう。
悪を行う者の末路
強盗が十字架につけられる前、イエス様は次のように教えておられました。
また、こうも言われました。
これらの言葉は嘘だったのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。
悪を行う人や、不法を行う人は、必ずこのとおりになります。
すると一体、どうしてあの強盗はパラダイスへ行くことが保証されたのでしょうか。
強盗の信仰
強盗の一人は、十字架上でのイエスの振る舞いを見て、この方が本物であることに気がつきました。それで彼は悔い改めたのです。
彼は言いました。「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と。
彼は自分の罪を認めたのです。生きる資格のない者であることを、心から悟ったのです。
次に彼は言いました。「あなたが御国の権威をもっておいでになるときには、私を思い出してください」と。
すなわち、キリストが復活してもう一度来られることを信じたのです。そして、そのときに自分のことを思い出し、救ってくださるよう、憐れみを請うたのです。
これと同じ姿を、どこかで見たことはないでしょうか。「自分には御国に入る資格がありません。ただ憐れみにすがるしかありません」このような姿を、どこかで聞いたことはないでしょうか。
義とされる人々
十字架につけられる前、イエス様はこうも言っておられました。
また、こうも言っておられます。
これらがそのまま、あの強盗の身に起こったのです。
彼らはいずれも、自分の罪を認め、憐れみを請うた人々です。
そういう人が義とされるというのが、イエス様の教えなのです。
するとこう考える人もいるでしょう。
「それなら、『善を行った人々は生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は裁きを受ける』とか、『不法を行う者は炉の火に投げ込まれる』という教えは、やはり嘘なのだ」と。
実際、それらの教えを信じることをやめ、罪を犯しながらも天国へ行けると思っているクリスチャンが大勢います。
そのような心は、あの強盗や取税人、放蕩息子の心と、本当に同じでしょうか。
罪を認めるとは
罪を認めるとは何でしょう。
「自分がやったことは罪だ」そう認識することでしょうか。
そうではありません。
罪を認めるとは、自分が主に反逆したことを認め、子と呼ばれる資格のない者であることを悟り、そのような性質を嘆き悲しみ、そこから救ってほしいと心から願うことです。
それが、あの強盗や取税人、放蕩息子の姿なのです。
彼らは心から神の律法に仕えています。心から律法に仕えているからこそ、このような嘆きが起こるのです。
そういう人を、主は善を行う者、義を行う者と呼んでくださるのです。
律法に心から仕えていない人に、このような嘆きは起こりません。
そういう人は、悪を行う者、不法を行う者と呼ばれるのです。
憐れみを請うとは
憐れみを請うとは何でしょう。
それは、自分の無力さに絶望し、ただ神様だけに頼ることです。
罪から離れたいのに、それができない。そういうことが私たちにはありますね。
そんなとき、「こんなことでは救われない」と思うことはありませんか。
気をつけてください。それこそ、救われない人の姿です。
自分の義を頼みとするなら、滅びます。
私たちが救われるのは、律法を守れたからではありません。ただ、神様の憐れみによるのです。
憐れみに頼らない人が救われる希望はまったくありません。
もう一度言います。
私たちが律法を守れたから救われるのではありません。
キリストが律法を守り、罪を負ってくださったからこそ、救われるのです。
この希望にすがることを、聖書は「憐れみを請う」と言っているのです。
あなたは、あの強盗や取税人、放蕩息子のように、憐れみを請う者となっていたでしょうか。
おわりに
十字架につけられた強盗が救われた理由は、自分の罪を認め、神の憐れみを請うたからです。
一方、次のように考える人は、救いから漏れています。
「私は律法を守っているので、天国へ行ける」
「私は律法を守れていないので、天国へ行けない」
「神の恵みによるのだから、律法を守る必要はない」
「どうせ赦されるのだから、罪を犯しても構わない」
このような態度は、あの強盗とも、取税人とも、放蕩息子とも違います。
「善を行った人々は生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は裁きを受けるためによみがえる」という聖書の言葉は本当です。
このことをよく考えてみてください。
私たちの罪はキリストが負ってくださいました。過去の罪も、未来の罪も、すべて赦されたのです。私たちの違反はもう思い出されません。律法を守れたかどうかは、一切問われないのです。
すると、何によって私たちの行き先は変わるのでしょうか。主は何を見て、「善を行う者」「悪を行う者」と判断されるのでしょうか。
それは、私たちの心です。
私たちが善を行う者に変わっているなら、パラダイスへ。そうでないなら、地獄へ行くのです。
これこそが、右の強盗と左の強盗の違いです。
律法の行いによって救われる人はいないし、
律法を守らない人が救われることもないのです。
このことを、どうか心に留めてください。
このブログを信じる必要はありません。
ただ、聖書の教えを確認してください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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