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十字架につけられた強盗はなぜ救われたのか

はじめに

聖書には、イエス・キリストの右と左に十字架につけられた強盗が出てきます。

マタイの福音書
27:38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

この強盗は悪を行い、救い主まで罵ったのです。

マタイの福音書
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった

けれど、このうち一人はパラダイスへ行くことが保証されました。

一体なぜでしょうか。
聖書から慎重に検証してみましょう。

悪を行う者の末路

強盗が十字架につけられる前、イエス様は次のように教えておられました。

ヨハネの福音書
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

また、こうも言われました。

マタイの福音書
13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
13:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

これらの言葉はうそだったのでしょうか。

絶対にそんなことはありません。
悪を行う人や、不法を行う人は、必ずこのとおりになります。

すると一体、どうしてあの強盗はパラダイスへ行くことが保証されたのでしょうか。

強盗の信仰

ルカの福音書
23:39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

強盗の一人は、十字架上でのイエスの振る舞いを見て、この方が本物であることに気がつきました。それで彼は悔い改めたのです。

彼は言いました。「お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ」と。
彼は自分の罪を認めたのです。生きる資格のない者であることを、心から悟ったのです。

次に彼は言いました。「あなたが御国みくにの権威をもっておいでになるときには、私を思い出してください」と。
すなわち、キリストが復活してもう一度来られることを信じたのです。そして、そのときに自分のことを思い出し、救ってくださるよう、あわれみを請うたのです。

これと同じ姿を、どこかで見たことはないでしょうか。「自分には御国みくにに入る資格がありません。ただあわれみにすがるしかありません」このような姿を、どこかで聞いたことはないでしょうか。

義とされる人々

十字架につけられる前、イエス様はこうも言っておられました。

ルカの福音書
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

また、こうも言っておられます。

ルカの福音書
15:21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
15:22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。

これらがそのまま、あの強盗の身に起こったのです。

彼らはいずれも、自分の罪を認めあわれみを請うた人々です。
そういう人が義とされるというのが、イエス様の教えなのです。

するとこう考える人もいるでしょう。
「それなら、『善を行った人々は生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は裁きを受ける』とか、『不法を行う者は炉の火に投げ込まれる』という教えは、やはりうそなのだ」と。

実際、それらの教えを信じることをやめ、罪を犯しながらも天国へ行けると思っているクリスチャンが大勢います。

そのような心は、あの強盗や取税人、放蕩ほうとう息子の心と、本当に同じでしょうか

罪を認めるとは

罪を認めるとは何でしょう。
「自分がやったことは罪だ」そう認識することでしょうか。

そうではありません。
罪を認めるとは、自分がしゅに反逆したことを認め、子と呼ばれる資格のない者であることを悟り、そのような性質を嘆き悲しみ、そこから救ってほしいと心から願うことです。

それが、あの強盗や取税人、放蕩ほうとう息子の姿なのです。

ローマ人への手紙
7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

彼らは心から神の律法に仕えています。心から律法に仕えているからこそ、このような嘆きが起こるのです。
そういう人を、しゅ善を行う者義を行う者と呼んでくださるのです。

律法に心から仕えていない人に、このような嘆きは起こりません。
そういう人は、悪を行う者不法を行う者と呼ばれるのです。

あわれみを請うとは

あわれみを請うとは何でしょう。
それは、自分の無力さに絶望し、ただ神様だけに頼ることです。

罪から離れたいのに、それができない。そういうことが私たちにはありますね。
そんなとき、「こんなことでは救われない」と思うことはありませんか。

気をつけてください。それこそ、救われない人の姿です。

ガラテヤ人への手紙
5:4 律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。

自分の義を頼みとするなら、滅びます。

エゼキエル書
33:13 わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ。

私たちが救われるのは、律法を守れたからではありません。ただ、神様のあわれみによるのです。
あわれみに頼らない人が救われる希望はまったくありません。

テトスへの手紙
3:5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。

もう一度言います。
私たちが律法を守れたから救われるのではありません
キリストが律法を守り、罪を負ってくださったからこそ、救われるのです

この希望にすがることを、聖書はあわれみを請う」と言っているのです。

あなたは、あの強盗や取税人、放蕩ほうとう息子のように、あわれみを請う者となっていたでしょうか。

おわりに

十字架につけられた強盗が救われた理由は、自分の罪を認め神のあわれみを請うたからです。

一方、次のように考える人は、救いから漏れています。
「私は律法を守っているので、天国へ行ける」
「私は律法を守れていないので、天国へ行けない」
「神の恵みによるのだから、律法を守る必要はない」
「どうせゆるされるのだから、罪を犯しても構わない」

このような態度は、あの強盗とも、取税人とも、放蕩ほうとう息子とも違います。

「善を行った人々は生命を受けるためによみがえり、悪を行った人々は裁きを受けるためによみがえる」という聖書の言葉は本当です。

このことをよく考えてみてください。
私たちの罪はキリストが負ってくださいました。過去の罪も、未来の罪も、すべてゆるされたのです。私たちの違反はもう思い出されません。律法を守れたかどうかは、一切問われないのです。

すると、何によって私たちの行き先は変わるのでしょうか。しゅは何を見て、「善を行う者」「悪を行う者」と判断されるのでしょうか。

それは、私たちの心です。
私たちが善を行う者に変わっているなら、パラダイスへ。そうでないなら、地獄へ行くのです。
これこそが、右の強盗左の強盗の違いです。

律法の行いによって救われる人はいないし、
律法を守らない人が救われることもないのです。
このことを、どうか心に留めてください。

このブログを信じる必要はありません。
ただ、聖書の教えを確認してください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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