はじめに
聖書には、救いに関して、「救われた」と表現する箇所と、「救われる」と表現する箇所があります。
この完了形と未来形の救いは、気分によって書き分けられているのでしょうか。
もちろん違います。
ここには、現代の私たちが知っておくべき、大切な真理があります。
ご一緒に聖書から確認してみましょう。
完了形の救い
驚くことに、「救われた」という完了形の救いは、聖書にはほとんどありません。
ほんの一部の箇所だけが、救いを完了形で記しているのです。
完了形の救いが印象に残っているのは、現代教会がこの二つの聖句を好んで使うからです。
実際には、これ以外に救いを完了形で表現する箇所はほとんどないのです。
未来形の救い
聖書は、圧倒的に救いを未来形で表現しています。
思い込みを捨てて、幼子のように聖書を受け入れてみましょう。
私たちは「救われた」状態にありつつも、「救われる」経験をまだしていないことがわかります。
「救われた」と「救われる」は、別のことを指しているからです。
永遠の命についても同じ
永遠の命についても同じです。
すでに得たかのように書かれた箇所と、未来に得るのだと書かれた箇所が、両方存在します。
これ以外の箇所は、圧倒的に未来のこととして書かれています。
聖書によれば、私たちはすでに「永遠の命」を持っています。
それでいて、信仰の戦いを戦い抜いたあとに、「永遠の命」を獲得するのです。
矛盾しているように感じますね。
けれど、この二つは、別々のことを指しているのです。
葡萄の木の例え
キリストは葡萄の木であり、私たちは接ぎ木された枝です。
恵みにより、信仰によって、私たちはキリストにつながりました。
このことを、聖書は「救われた」「永遠の命を持っている」と表現しているのです。
けれども、実を結ばないものは父が取り除くとあるとおり、私たちが実を結ばないなら、その枝は取り除かれてしまいます。
実を結ぶ人は、やがて収穫されます。
このことを、聖書は「救われる」「永遠の命に至る」と表現しているのです。
花婿と花嫁の例え
聖書は、キリストと私たちの関係を、花婿と花嫁の婚約に例えています。
婚約者となったのだから、共同相続人であり、父の子と呼ばれる資格もあります。
このことを、聖書は「救われた」「永遠の命を持っている」と表現しているのです。
けれども、結婚式はまだであることを覚えてください。
結婚式は、キリストが再び来られたときに行われます。
用意をしていた人だけが、この結婚式に参加できます。
このことを、聖書は「救われる」「永遠の命に至る」と表現しているのです。
おわりに
多くの教会が、「救われた」という言葉だけを連呼しています。
それは医者に出会ったことだけで満足し、忠告に聞き従わないで滅びる患者と同じです。
聖書は、私たちがどのようにして「救われる」かを教えているのであって、「救われた」ことで満足するようには教えていません。
大切なのは、実を結ぶこと、用意していることです。
私たちは行いによって「救われた」のではありませんが、行う者だけが「救われる」のです。
「救われた」だけで、実を結ばないなら、取り除かれてしまいます。
「救われた」だけで、用意をしていないなら、戸が閉められてしまいます。
そのように聖書は教えているはずです。
ですから、「救われる」ことに目を向けてください。
そのための方法が、聖書にはたくさん書かれています。
今、間違った教えをすべて捨て去って、聖書から真理を取り戻しましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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