不信仰とはこのことです
はじめに
聖書の教える不信仰とは何でしょう。
ある人は、救いの確定を否定する人のことを、不信仰だと非難します。
不信仰とは、そういうことでしょうか。
聖書から確かめてみましょう。
私たちを神の愛から引き離すものはない
ハレルヤ! 神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。
とはいえ、これを、裁きのときに無罪とされる理由に使うことができるのでしょうか。
神はすべての人を愛し、すべての人が救われることを望んでおられます。
だから、全員が救われるのでしょうか。
いいえ。
聖書は間違いなく、裁きと、永遠の滅びについて教えています。
神様は、愛する者のために偽証して、無罪とするようなお方ではありません。
そのようなことは、神ご自身が、罪と定めておられます。
私たちは新しく造られた
聖書は、私たちのことを、新しく造られた者と教えます。
この新しい創造が、逆戻りすることなどあるのでしょうか。
はい。
あなたが真の信仰者であるなら、自分にとって都合の良い聖句だけを見てはいけません。
このとおり、聖霊により一新された人でも、再び汚れに巻き込まれるなら、初めよりも悪くなることを、聖書ははっきりと教えています。
サウル王がそのいい例です。
新しいものでも、手入れを怠るなら、やがて古びていくということです。
私たちは義と認められた
一度、義と認められた人が、再び有罪とされることなどあるのでしょうか。
はい。
罪を赦された人でも、そのあとに犯す罪を悔い改めないなら、裁判で有罪になるのは当たり前です。
だからこそ、熱心になって悔い改めよと聖書は教えているのです。
私たちは永遠の命を持っている
聖書は、私たちが永遠の命を持っていると教えます。
これを取り去ることで、神様が約束を破ることなどあるのでしょうか。
いいえ。
約束を破るのは、私たちのほうです。
主の約束は、神の戒め(十戒)を守る者となって、永遠の命を得なさいというものです。
悔い改めとは、このことです。
神の戒めを守らないなら、その人は悔い改めていないことを覚えてください。
ここで、ある疑問が浮かぶ人もいるでしょう。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのでは?」
そのとおりです。
しかし、その意味を履き違えてはいないでしょうか。
パウロの言いたいことは、断じて、律法を無効にすることではありません。
人が形式的に律法を守ったところで、義は勝ち得ないと言っているのです。
だから、信仰によって律法を確立しなさい。これが聖書の教えです。
そのためには、律法に服従し、それを心に書きつけてもらう必要があります。
そうしてこそ、罪から解放され、義の僕となれるのです。
神の戒めに服従しない人に、この約束は成就しないことを覚えてください。
不信仰とは
不信仰とは、けっして、救いの確定を否定することではありません。
救いを失う可能性については、聖書がはっきりと警告していることだからです。
不信仰とは、それらの言葉を信じないことです。
次の言葉を、あなたは信じているでしょうか。
確かに、救いは神様からのプレゼントであり、恵みです。
しかし、そこに条件はないのでしょうか。
「恵みならば条件などないはず」という決めつけを、私たちは払拭しなければなりません。
これらの言葉から離れるなら、私たちは救いを失ってしまいます。
そのような人を、聖書は不信仰と呼んでいるのです。
実際、不信仰な人々が教会に忍び込んできて、神の恵みを、放縦に変えてしまいました。
不信仰とは、このような人たちであることを覚えてください。
おわりに
不信仰とは、神の言葉を信じないことです。
救いの確定を否定することではありません。
多くのクリスチャンが、自ら不信仰に陥りながら、真理に立つ人々を、不信仰だと罵っています。
どうか皆さん、自分の信仰を吟味してください。
へりくだりの心を失ってはいないか、探ってみてください。
自分の理解と違うものを、「間違い」と決めつける人の、なんと多いことでしょう。
それはあなたの考えと違うだけであって、間違いとは限らないのです。
私自身、そのことに気づかされ、考えを変えてきた一人です。
このブログを信じる必要はまったくありません。
間違いのない言葉は、神の言葉、聖書だけです。
どうか、聖書を確かめてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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