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悔い改めは一度きりか

はじめに

「悔い改めは一度きりのものである」と教えるクリスチャンと、
「罪を犯したなら、そのたびに悔い改める必要がある」と教えるクリスチャンがいます。

一体、どちらが正しいのでしょうか。

ご一緒に聖書から確認してみましょう。

本来のクリスチャンの姿

先に、本来クリスチャンとは、どのような者であるかを確認しておきましょう。

ヨハネの手紙 第一
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない

罪を犯すことができない。これが本来のクリスチャンの姿です。

ところが、同じ手紙に、こうも書いてあります。

ヨハネの手紙 第一
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

一体、どういうことでしょうか。

悪に染まる私たち

本当に悔い改めて神に立ち返った人は、世から分離されます。
世の人々が当たり前に行っている罪を、進んで犯せなくなるのです。

もしそうなっていないなら、聖霊の導きを得ていません。まずはそのことを吟味してください。

次に、聖霊を受けたクリスチャンであっても、肉体が変化するわけではありません。肉体は相変わらず罪の性質を宿しています。しかもそれは、悪魔の支配する世界に置かれています。

そのため、欲に引きずられ、私たちはときに罪を犯すことがあります。
自己愛、金銭欲、傲慢──、世の人々にとっては当たり前であっても、それは罪です。

これらを放置すると、どうなるでしょう。

次のことを知っておかねばならないと聖書は教えます。

テモテへの手紙 第二
3:1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい

これらはすべて、罪を放置したクリスチャンの姿です。

では一体、どうしたらこれを避けられるのでしょうか。

その方法こそ「悔い改め」なのです。

悔い改め

世の人々は、罪の解決方法を知りません。
しかし、私たちは知っています。

ルカの福音書
5:31 イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。
5:32 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。

ここで、クリスチャンは大きく二つのグループに分かれます。
一つは、一度悔い改めたことで、今後犯す罪もすべてゆるされると考えるグループ。
もう一つは、罪を犯すたびに、その悔い改めが必要だと考えるグループ。

結論から申し上げますと、
前者の考えは広く知られていますが、聖書的ではありません
後者こそ、聖書の教える健全な考え方です。

ルカの福音書
17:3 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。
17:4 もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。

ヨハネの黙示録
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい

熱心になって悔い改める生活

熱心になって悔い改める生活を、苦しい生活だと教える人がいます。
それは真理の道を歩んだことのない人の言葉です。

本当のクリスチャンは、喜んで、感謝のうちに悔い改めを続けています。

あなたは、汚い服を着続けるのと、日々、洗濯された服を着るのと、どちらを好みますか?

しゅは、私たちの小さなけがれであっても、それを洗い流そうと待っておられます。
これを洗わないなら、私たちはしゅと何の関係もない者になってしまいます。

ヨハネの福音書
13:8 ──もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。

聖霊のバプテスマを受けた私たちは、全身がきれいです。
けれどしゅは、そのあとについた足の汚れさえも、洗ってくださろうというのです。

これを恵みだと思わない人がいるでしょうか。

罪悪感をなくす方法

罪悪感をなくす方法は、二つあります。

一つは、開き直ることです。
もう罪を犯してもよくなったと考え、気にしないことです。

この方法は、罪悪感をなくすことはできても、悪に染まることを避けられないでしょう。

もう一つは、悔い改めることです。
悔い改めた罪は拭い去られ、けっして思い出されないとしゅは約束してくださるからです。

使徒の働き
3:19 だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。

ヘブル人への手紙
8:12 わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。

そもそも、罪悪感とは何でしょう。
それは聖霊の導きであり、良心の健全な働きです。
私たちが抵抗さえしなければ、神様は私たちを救ってくださるのです。

ですから、これに向き合い、悔い改めましょう。
そうすれば、私たちは完全に癒やされるのです。

偽りの教え

はっきり言いましょう。
熱心になって悔い改めることを否定する教えは、偽りの教えです。
もうだまされてはいけません。

彼らの言い分はこうです。
「罪をいちいち謝罪するなら、それは相手との不健全な関係を築くことになる」

本当にそうでしょうか。

マタイの福音書
5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。

謝罪することは、かえって相手との健全な関係を築くことになります。

ですから、私たちは神との健全な関係を築くためにも、些細な罪さえ嫌い、熱心に悔い改める必要があります。

そうしない人はどうなると聖書は教えるでしょう。

ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。

念のために言っておきますが、罪を犯したらすぐに救いを失う、というのではありません。
また、罪を犯すことで、神様の愛を失うのでもありません。
しゅは初めから、罪人を愛し、そのような人を救うために来てくださったからです。

罪意識を捨て、罪悪感を無視し、悔い改めをやめたときに、私たちは救いを失うのです。

おわりに

救いとは何でしょう。
私たちは何から救われるのでしょうか。

マタイの福音書
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

救いとは「罪からの救い」です。
ですから、悔い改めをやめたとき、救いを失うことは必然です。

今、思い込みを捨てて、真理に向き合ってみましょう。
罪を悲しみ、これをしゅに告白し、拭い去っていただくことは、悪いことでしょうか?

絶対にそんなことはありません。それはとても良いことです。
弟子たちは何度、これを喜び、感謝して、悔い改めの祈りをささげたことでしょう。

それなのに、これを「苦しい生き方」と呼ぶ教師が増えています。
彼らは、キリストがただ一度だけささげられたことを取り上げて、悔い改めまでも、一度きりでよいと教えます。真実の中にうそを混ぜ込むことで、巧妙に教えを曲げているのです。

そのような怠惰な教えを喜んだのは、私たちクリスチャンです。
このことを、聖書は前もって警告していました。

テモテへの手紙 第二
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

もう、こんなことを続けてはいけません。
今日、神との健全な関係を回復し、本来の姿を取り戻しましょう。

間違った教えをすべて手放して、聖書に立ち返るときが来ています。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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