聖書の教える二つの自由
はじめに
聖書は私たちに自由について教えます。
その自由とは何でしょう。
罪を犯してもよくなることでしょうか。
絶対にそんなことはありません。
ご一緒に聖書から確認してみましょう。
二つの自由
「自由」と聞くと、「何をしてもいい」と私たちは思いがちです。
聖書の教える「自由」もそうなのでしょうか。
まず、「自由」と「解放」は聖書において同じ単語であることを知ってください。
さて、聖書は二つの自由について教えてくれます。
一つは、罪からの解放。
もう一つは、律法からの解放です。
それぞれ詳しく見ていきましょう。
その1 罪からの解放
罪を犯す者は、罪の奴隷です。
聖書は、罪の奴隷であった私たちが、罪から解放され、自由になると教えています。
罪の性質に負けて律法を守れなかった私たちが、律法を守れるようになるということです。
ゆえに、この自由を得るには、律法に心から服従しなければなりません。
その2 律法からの解放
「ローマ人への手紙」の中で、律法からの解放とは、私たちが文字によって仕えることから、霊によって仕える者へと変えられることを指します。
すなわち、「律法にそう書いてあるから」という義務感からではなく、「御心を行いたい」という本心から、律法の要求を満たせるようになるということです。
これはどちらかというと「罪からの解放」に属するものです。
一方、「ガラテヤ人への手紙」にも律法からの解放があります。
今回扱うのはこちらです。
ここで聖書は何を言いたいのでしょうか。
「律法の全部を行う義務はない」ということです。
割礼を受けようとするなら、律法の全部を行う義務があります。
人の勝手な都合で、律法を選り好みすることはできないからです。
律法の一つでも守る義務があると思うなら、すべてを守る義務があるのです。
このことを素直に受け取りましょう。
私たちは律法の全部を行う義務から解放されているのです。
二つの自由の両立
さて、ここらで混乱してきた方もおられるでしょう。
まずは整理してみましょう。
聖書は「罪からの解放」と「律法からの解放」を教えています。
私たちは律法の全部を行う義務から解放されているのです。
それでいて、心から律法に服従する人だけが、罪から解放されるというのです。
矛盾しているように感じられますね。
この真理を受け取るには、「神の戒め」と「モーセ律法」の違いを正しく知る必要があります。
これがわかれば、聖書は本当に読みやすくなります。
「神の戒め」と「モーセ律法」の違い
「十戒はモーセ律法の一部である」と教える人がいますが、それは間違いです。
「殺すな」「姦淫するな」「安息日を聖別せよ」
これらの戒めは、モーセの時代に考え出されたものではありません。
これを最初に守ったのはアダムです。そして最初に殺人を犯したのは、アダムの息子カインでした。殺人が不法であるからこそ、神はカインを咎めたのです。
十戒は天における義の基準です。天が滅び行かない限り、一点、一画も変化することはありません。
もちろん、天の聖所にも十戒はありました。
天はモーセの時代にできたのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。「はじめに神は天と地を創造された」とあるとおりです。
天は初めからあり、そこに十戒があったのです。
モーセに与えられたものは、その雛形に過ぎません。
このとおり、
十戒は断じてモーセの時代に造り出されたものではありません。
「殺すな」「姦淫するな」などの戒めは、天で初めから定められていた義の基準なのです。
これに対し、モーセ律法はあとから加えられたとはっきり書かれています。
この律法は、約束されていた子孫イエス・キリストが来るまで存続するだけのものです。
「ガラテヤ人への手紙」で全部を行う義務はないと言われたのは、このモーセ律法であることを覚えてください。
この区別を、パウロは次のように簡潔に述べています。
大事なのは、ただ神の戒めを守ること
大事なのは、ただ神の戒めを守ることです。
十戒に心から服従する人だけが、罪からの解放を得るのです。
永遠の命についての教えもこれと同じです。
「全部だ」とは主は言われませんでした。
永遠の命を得るためには、十戒と、その要約である第二の戒めを守りなさいと言われたのです。
すると必ずこう言う人が現れます。
「いや、この人に足りないことがあるのを教えるために、主は嘘をついたのだ」
絶対にそんなことはありません。
一つでも偽証するなら、傷のない子羊にはなれなかったでしょう。
主は本当のことを言われたのです。
十戒こそが愛なのです。
兄弟を憎むことは殺人であり、人を情欲の目で見ることは姦淫です。
この十戒に心から服従する人に、聖霊は力を与え、その結果、私たちは豊かに実を結ぶようになるのです。
もう、この恵みから私たちを引き離そうとする人を信じてはいけません。
彼らは「信じるだけで命を得た」と言って自分たちを誇り、「そんな生き方は苦しくありませんか?」と言って、戒めを守る人たちを誘惑します。
彼らの与える自由は、本物の自由ではありません。
「あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなる」
これこそが、聖書の教えであることを確認してください。
おわりに
聖書のいう自由とは何か、おわかりいただけたでしょうか。
一つは、私たちが神の戒めに心から服従することで実現する、罪からの解放を指します。
もう一つは、私たちがモーセ律法を行う義務から解放されていることを指します。
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命に入りたければ、聖書から真理を確かめてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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