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聖書の教える二つの自由

はじめに

聖書は私たちに自由について教えます。

その自由とは何でしょう。
罪を犯してもよくなることでしょうか。

絶対にそんなことはありません。
ご一緒に聖書から確認してみましょう。

二つの自由

「自由」と聞くと、「何をしてもいい」と私たちは思いがちです。
聖書の教える「自由」もそうなのでしょうか。

まず、「自由」「解放」は聖書において同じ単語であることを知ってください。

ヨハネの福音書
8:31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。
8:32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする(解放する)。」

聖書協会共同訳2018

さて、聖書は二つの自由について教えてくれます。
一つは、罪からの解放
もう一つは、律法からの解放です。

それぞれ詳しく見ていきましょう。

その1 罪からの解放

罪を犯す者は、罪の奴隷です。

ヨハネの福音書
8:34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
8:35 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。

聖書は、罪の奴隷であった私たちが、罪から解放され、自由になると教えています。
罪の性質に負けて律法を守れなかった私たちが、律法を守れるようになるということです。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです
3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪(律法違反)を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪(律法違反)を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ゆえに、この自由を得るには、律法に心から服従しなければなりません。

ローマ人への手紙
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して
6:18 罪から解放され、義の僕となった。

その2 律法からの解放

「ローマ人への手紙」の中で、律法からの解放とは、私たちが文字によって仕えることから、霊によって仕える者へと変えられることを指します。

ローマ人への手紙
7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

すなわち、「律法にそう書いてあるから」という義務感からではなく、御心みこころを行いたい」という本心から、律法の要求を満たせるようになるということです。

これはどちらかというと「罪からの解放」に属するものです。

一方、「ガラテヤ人への手紙」にも律法からの解放があります。
今回扱うのはこちらです。

ガラテヤ人への手紙
5:1 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。
5:2 見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。
5:3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある

ここで聖書は何を言いたいのでしょうか。

「律法の全部を行う義務はない」ということです。

割礼を受けようとするなら、律法の全部を行う義務があります。
人の勝手な都合で、律法をり好みすることはできないからです。
律法の一つでも守る義務があると思うなら、すべてを守る義務があるのです。

このことを素直に受け取りましょう。
私たちは律法の全部を行う義務から解放されているのです。

二つの自由の両立

さて、ここらで混乱してきた方もおられるでしょう。

まずは整理してみましょう。
聖書は「罪からの解放」「律法からの解放」を教えています。

私たちは律法の全部を行う義務から解放されているのです。
それでいて、心から律法に服従する人だけが、罪から解放されるというのです。

矛盾しているように感じられますね。

この真理を受け取るには、「神の戒め」「モーセ律法」の違いを正しく知る必要があります。
これがわかれば、聖書は本当に読みやすくなります。

「神の戒め」と「モーセ律法」の違い

十戒じっかいはモーセ律法の一部である」と教える人がいますが、それは間違いです。

「殺すな」「姦淫かんいんするな」「安息日を聖別せよ」
これらの戒めは、モーセの時代に考え出されたものではありません。

創世記
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

これを最初に守ったのはアダムです。そして最初に殺人を犯したのは、アダムの息子カインでした。殺人が不法であるからこそ、神はカインをとがめたのです。

十戒じっかい天における義の基準です。天が滅び行かない限り、一点、一画も変化することはありません。

もちろん、天の聖所にも十戒じっかいはありました。

ヨハネの黙示録
11:19 そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた──

天はモーセの時代にできたのでしょうか。
絶対にそんなことはありません。「はじめに神は天と地を創造された」とあるとおりです。

天は初めからあり、そこに十戒じっかいがあったのです。
モーセに与えられたものは、その雛形ひながたに過ぎません。

ヘブル人への手紙
8:5 彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。

このとおり、
十戒じっかいは断じてモーセの時代に造り出されたものではありません。
「殺すな」「姦淫かんいんするな」
などの戒めは、天で初めから定められていた義の基準なのです。

マタイの福音書
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
19:9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

これに対し、モーセ律法はあとから加えられたとはっきり書かれています。

ガラテヤ人への手紙
3:19 それでは、律法(アブラハム契約から430年後にできたモーセ律法)はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

この律法は、約束されていた子孫イエス・キリストが来るまで存続するだけのものです。
「ガラテヤ人への手紙」で全部を行う義務はないと言われたのは、このモーセ律法であることを覚えてください。

この区別を、パウロは次のように簡潔に述べています。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである

大事なのは、ただ神の戒めを守ること

大事なのは、ただ神の戒めを守ることです。
十戒じっかいに心から服従する人だけが、罪からの解放を得るのです。

永遠の命についての教えもこれと同じです。

マタイの福音書
19:16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。

「全部だ」とはしゅは言われませんでした。
永遠の命を得るためには、十戒じっかいと、その要約である第二の戒めを守りなさいと言われたのです。

すると必ずこう言う人が現れます。
「いや、この人に足りないことがあるのを教えるために、しゅうそをついたのだ」

絶対にそんなことはありません。
一つでも偽証するなら、傷のない子羊にはなれなかったでしょう。

しゅは本当のことを言われたのです。

ローマ人への手紙
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

十戒じっかいこそが愛なのです。

兄弟を憎むことは殺人であり、人を情欲の目で見ることは姦淫かんいんです。
この十戒じっかいに心から服従する人に、聖霊は力を与え、その結果、私たちは豊かに実を結ぶようになるのです。

もう、この恵みから私たちを引き離そうとする人を信じてはいけません。
彼らは「信じるだけで命を得た」と言って自分たちを誇り「そんな生き方は苦しくありませんか?」と言って、戒めを守る人たちを誘惑します。

ペテロの手紙 第二
2:18 彼らはむなしい誇を語り、迷いの中に生きている人々の間から、かろうじてのがれてきた者たちを、肉欲と色情とによって誘惑し、
2:19 この人々に自由を与えると約束しながら、彼ら自身は滅亡の奴隷になっている。おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。

彼らの与える自由は、本物の自由ではありません

「あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなる」
これこそが、聖書の教えであることを確認してください。

おわりに

聖書のいう自由とは何か、おわかりいただけたでしょうか。

一つは、私たちが神の戒めに心から服従することで実現する、罪からの解放を指します。
もう一つは、私たちがモーセ律法を行う義務から解放されていることを指します。

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