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荒らす憎むべきものとは

はじめに

イエス・キリストは次のように言われました。

マタイの福音書
24:15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
(途中省略)
24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

荒らす憎むべきものが聖なる場所に立つと、史上最大の患難が起こる、そうイエス様は教えているのです。

この荒らす憎むべきものとは、一体何でしょうか。
ご一緒に聖書から調べてみましょう。

ダニエルの預言

まずは「預言者ダニエルによって言われた」という、その箇所を見てみましょう。

ダニエル書
11:31 彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。
11:32 彼は契約を破る者どもを、巧言をもってそそのかし、そむかせるが、自分の神を知る民は、堅く立って事を行います。

多くの預言がそうであるように、この預言にも、表の預言と、裏の預言があります。

表の預言は、紀元前170年ごろ、アンティオコス・エピファネスが神殿にゼウス像を安置することによって成就しました。

とはいえ、イエス様が「荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つのを見たならば」と言われたのは、紀元後のことですから、別のことについて語られたのは明らかです。

また、アンティオコス・エピファネスによってゼウス像が立てられたように、
荒らす憎むべきものとは「立てられるもの」であって、「立てる者」ではないことに注意してください。
何者かによって、荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立てられるのです。

聖なる場所

荒らす憎むべきものが立てられる「聖なる場所」について確認してみましょう。

多くの神学者が、これを未来に建つ第三神殿だと教えますが、そうではありません。

使徒の働き
17:24 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない

今後、どのような建物が建とうとも、そこに神様はお住みになりません。
そんな建物を、イエス様が「聖なる場所」と表現することはないのです。

聖なる場所、聖所、神の宮、それは教会のことにほかなりません。

エペソ人への手紙
2:21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し
2:22 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

いつ立てられるのか

荒らす憎むべきものは、いつ教会に立てられるのでしょうか。

ダニエル書
9:26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。
9:27 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。

まず注意してください。
ここに書かれた「彼」を、未来の独裁者だと考える人がいますが、これはイエス・キリストにほかなりません。

「彼」は多くの人と「新しい契約」を結びましたが、三年半の宣教ののち、自らが供え物となって、犠牲制度を終わらせたのです。

荒らす憎むべきものが聖なる場所に立つのは、そのあとです。
つまり、メシアが断たれて間もなく、荒廃が始まるということです。

この荒廃については、次のように書かれています。

ダニエル書
8:9 その角の一つから、一つの小さい角が出て、南に向かい、東に向かい、麗しい地に向かって、はなはだしく大きくなり、
8:10 天の衆群に及ぶまでに大きくなり、星の衆群のうちの数個を地に投げ下して、これを踏みつけ、
8:11 またみずから高ぶって、その衆群の主に敵し、その常供の燔祭を取り除き、かつその聖所を倒した。
8:12 そしてその衆群は、罪によって、常供の燔祭と共に、これにわたされた。その角はまた真理を地に投げうち、ほしいままにふるまって、みずから栄えた

この小さい角は、ダニエル書の七章で明かされているとおり、分裂したローマ帝国から出現する小国、ローマ教皇権(バチカン)です。
これこそが、「立てる者」です。

歴史が証明するとおり、この勢力は教会を踏みつけ、高ぶり、真理を地に投げ打ちました。
この者によって、荒らす憎むべきものは、もう立てられていると考えられます。

また注意してください。
常供じょうくの燔祭を取り除き」とありますが、これを「犠牲と供え物とを廃する」というキリストの功績と混同してはいけません。

常供じょうくの燔祭と、贖罪しょくざいささげ物。私たち日本人からすると、どちらも似たようなものに感じられますが、これらはまったく別物です。

常供じょうくの燔祭

小さい角が取り除く常供じょうくの燔祭」について、詳しく見てみましょう。

常供じょうくの燔祭(ハ・タミード)、これは「常に(タミード)」という言葉に定冠詞がついたもので、祭司によって定期的にささげられた供え物のことです。

預言的には、神に仕える祭司の働き、すなわち真の礼拝を指すものと思われます。

ヨハネの福音書
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

ローマ人への手紙
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である

これが常供じょうくの燔祭です。
すなわち、自分のために生きることをやめ、しゅのために生きる。それが聖書の教える、真の礼拝なのです。

それなのに、現代、多くのクリスチャンが、しゅのために生きず、自分のために生きています。
これこそが、常供じょうくの燔祭が取り除かれた証拠ではないでしょうか。

教会に何が立てられたのか

一体、どうしてこうなってしまったのでしょうか。
ローマ教皇は、教会に何を打ち立てたのでしょうか。

教皇が打ち立てたのは、聖なる契約に対抗する、にせの教えにほかなりません。
具体的には、安息日と十戒じっかいの変更です。

ダニエル書
7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。

これこそが、聖なる場所に立てられた「荒らす憎むべきもの」だと考えられます。
別の箇所では、「荒らすことをなす罪」と書かれています。

ダニエル書
8:13 それから、わたしはひとりの聖者の語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒すことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻にあらわれたことは、いつまでだろうか」と。

本来、聖所に置かれるべきものは、契約の箱であり、その中身は十戒じっかいです。
ところが教会には、もう正しい十戒じっかいは置かれていません。

十戒じっかいを破ることは不法であり、破らせる者は不法の者です。

テサロニケ人への手紙 第二
2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する

預言のとおり、ローマ教皇は神の宮である教会に座し、自らを神の代理人と名乗り、「時と律法を変えようと望む」とあるように、安息日と十戒じっかいを変えました

このにせの教えは、宗教改革をもってしても取り除かれることはありませんでした。

そのせいで、教会は現在も安息日けがしており、十戒じっかいを捨てるようになってしまったのです。

おわりに

荒らす憎むべきものは、もう聖なる所に立っており、常供じょうくの燔祭は教会から取り除かれています。

そのせいで、現代の教会は、初代教会とぜんぜん違う姿をしているのです。

これに気づいた人々は、にせの教えから脱出を始めています。

マルコの福音書
13:14 荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。

ある人は、真の礼拝を取り戻し、自分を生きた聖なる供え物として神にささげるべく、安息日を守れるような仕事に転職したり、休むことを公言したりしています。

またある人は、兄弟を助けるべく、日曜礼拝をやめ、十戒じっかいの正しい教えをべ伝え始めています。

あなたはどうでしょうか。
あなたにとって、しゅに従うことは、自分の生活よりも優先度の低いことでしょうか。

ルカの福音書
14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

これは自主的なものでなければ意味がありません。しゅのしてくださったことを思い、この王に全力でお仕えしたいという人でなければ、王国の一員とはなれないのです。

思い出してください、あなたを買い取るために、どんなに大きな支払いがなされたのかを。

ローマ人への手紙
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。

しゅは、私たちがけっして滅びないように、最大限の愛を示されたのです。それは何のためでしょうか。

コリント人への手紙 第二
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

この大きな愛に応えましょう。
荒らす憎むべきものを捨て、常供じょうくの燔祭を取り戻すのです。

しゅが私たちに何をしてくださり、何を求めておられるのか、今一度、聖書から確認する必要があります。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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