私たちのすべき戦い
はじめに
聖書は、私たちに戦うようにと何度も教えています。
さて、私たちは一体、どんな戦いをすべきなのでしょうか。
私たちのすべき戦い
私たちクリスチャンのすべき戦いは、支配と権威に対する戦いだと聖書は教えます。
どういうことでしょうか。
ある町に、二人の農夫がいたとします。
片方の農夫は、毎日、脇目も振らずに働いて、大きな収穫を得ました。
その収穫で、さらに農地を増やして、忙しくはなりましたが、蓄えはもっと増えました。
もう片方の農夫は、神様を最優先にし、安息日には仕事をせず、困っている人、悩んでいる人がいれば、行って神様の話をしました。
そのため、よその農地よりも、収穫は多くありませんでした。
さて、正しい農夫とは、一体どちらの農夫でしょうか。
その判断を下すには、どの価値観から見るかを決めなければなりません。
世の価値観としては、前者の農夫が正しい農夫でしょう。彼は働き者と賞賛され、偉大な者、成功した者と呼ばれるでしょう。
一方、天国の価値観としては、後者の農夫が正しい農夫です。人々からは怠け者と罵られるかもしれませんが、天に宝を積むことになるでしょう。
このどちらの価値観を持つかで、誰の支配におり、誰の権威に従っているかがはっきりするのです。
あなたの心はどこに所属していますか?
この所属は、決して兼任できないと聖書は教えます。
すなわち、100%神に仕えるか、そうでないか、どちらかなのです。
99%しか仕えない人を、神様が天国の住人として認めることはありません。
悪魔は私たちを自分の側に引き入れようと、日夜働いています。
それに同調してはいけません。聖書をよく読み、キリストを知って、私たちは価値観を変えなければなりません。
これこそが、私たちのすべき戦い、支配と権威に対する戦いです。
大切なのは、方向転換
聖書は、この世の支配者はサタンだと教えます。
このサタンの支配下で、私たちは生まれました。
そのままでいるなら、私たちの支配者は悪魔であり、私たちは悪魔の子です。
キリストが来てくださったのは、この支配者を、私たちの中から追い出すためです。
実際、キリストは来て、この世の君を追い出し、目に見えないところで、神の国を造り始めました。
神の国の到来とは、
私たちの心からこの世の君が追い出され、
神の国の価値観が造り上げられることです。
これこそが、御国の福音、私たちの希望です。
この福音を信じますか?
これを信じ、方向転換できるかが重要なのです。
方向転換したパウロ
かつてパウロは、クリスチャンを投獄し、死刑に票を投じていました。
そんなパウロが、主にあって方向転換し、神の国の一員として働き始めたのです。
パウロはすべてのものを失いましたが、その失ったものを、糞土のように思っていると書いています。
これこそが、100%神に仕えるようになった人の姿です。
私たちも、本当にキリストを知るなら、必ずそのようになれます。
そうなることこそ、私たちの中に、神の国が形成されるということです。
あなたの主人は本当に聖書の神ですか
ところで、私たちは100%神様に仕えようとしているでしょうか。
本当の本当に、「聖書の神」を神としているでしょうか。
というのも、教会の中に、自分を神だと宣言する者が現れると預言されているからです。
これは必ず起こることです。
聖書の預言が嘘であった試しはないからです。
それなら、どうやって不法の者に対抗すればいいのでしょうか。
その対抗手段を、神様はちゃんと人に与えておられます。
不法の者に対抗するための贈り物
その贈り物とは、安息日です。
人のためにあるというこの贈り物は、一体、何のために与えられたのでしょうか。
聖書は次のように教えます。
これは、神と私たちとのあいだのしるしであって、主が私たちの神であることを確認するためにあるのです。
もしも、いつの間にか安息日を聖別しなくなっていたなら、そのときこそ、主が私たちの神となっていないことを知ることができるのです。
もうおわかりのとおり、教会はすでにそうなっています。
「不法の者」が現れているからです。
それはローマ教皇にほかなりません。
この勢力が、神の宮(すなわち教会)に座し、安息日を日曜礼拝に変えてしまったのです。
それなら、安息日を守る教会はどこへ消えてしまったのでしょうか。
歴史を勉強すれば分かります。彼らはローマカトリックによって、ことごとく殺されてしまったのです。
ここで、もう一度、思い出してください。
私たちの戦いは、支配と権威に対する戦いです。
創造の記念日である安息日を祝わず、日曜礼拝に固執するなら、あなたはローマ教皇の支配と権威に屈しているのです。
受け入れがたいことかもしれませんが、どうか、へりくだって、真剣に考えてみてください。
「不法」とは何でしょう。
それは法に背くことです。その法とは、神の律法にほかなりません。
「不法」を行う人がどうなるか、主は何度も教えているはずです。
おわりに
私たちのすべき戦いとは、誰の支配に入るかという戦いです。
悪魔の子か、神の子か、それは律法に違反するかどうかで区別されると聖書は教えます。
ここでいう律法とは、天地が滅び行くまで一点一画も廃れず、一つも破ってはいけないと主が教える律法、十戒のことです。
十戒を見ればわかるように、安息日を無視することは、罪です。
これを無視するなら、その人は神のしるしを失った状態であり、神でないものに従っているのだと聖書は教えます。
もう、頑になる必要はありません。
安息日を喜びの日とし、この聖日を尊ぶなら、どんなにか神様と親密になれることでしょう。
何の後ろめたさもなく、100%神様に従える人の心は、どんなにか晴れやかなことでしょう。
このブログを信じる必要はありません。
しかし、聖書は信じてください。御言葉が、サタンの支配からあなたを脱出させてくれるはずです。
どうか、聖書を信じてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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