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私たちのすべき戦い

はじめに

聖書は、私たちに戦うようにと何度も教えています。

テモテへの手紙 第一
6:12 信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。

さて、私たちは一体、どんな戦いをすべきなのでしょうか。

私たちのすべき戦い

私たちクリスチャンのすべき戦いは、支配と権威に対する戦いだと聖書は教えます。

エペソ人への手紙
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである

どういうことでしょうか。

ある町に、二人の農夫がいたとします。

片方の農夫は、毎日、脇目も振らずに働いて、大きな収穫を得ました。
その収穫で、さらに農地を増やして、忙しくはなりましたが、蓄えはもっと増えました。

もう片方の農夫は、神様を最優先にし、安息日には仕事をせず、困っている人、悩んでいる人がいれば、行って神様の話をしました。
そのため、よその農地よりも、収穫は多くありませんでした。

さて、正しい農夫とは、一体どちらの農夫でしょうか。

その判断を下すには、どの価値観から見るかを決めなければなりません。

世の価値観としては、前者の農夫が正しい農夫でしょう。彼は働き者と賞賛され、偉大な者、成功した者と呼ばれるでしょう。

一方、天国の価値観としては、後者の農夫が正しい農夫です。人々からは怠け者と罵られるかもしれませんが、天に宝を積むことになるでしょう。

このどちらの価値観を持つかで、誰の支配におり、誰の権威に従っているかがはっきりするのです。

マタイの福音書
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである

あなたの心はどこに所属していますか?
この所属は、決して兼任できないと聖書は教えます。

マタイの福音書
6:24 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

すなわち、100%神に仕えるか、そうでないか、どちらかなのです。
99%しか仕えない人を、神様が天国の住人として認めることはありません。

悪魔は私たちを自分の側に引き入れようと、日夜働いています。
それに同調してはいけません。聖書をよく読み、キリストを知って、私たちは価値観を変えなければなりません。
これこそが、私たちのすべき戦い、支配と権威に対する戦いです。

大切なのは、方向転換

聖書は、この世の支配者はサタンだと教えます。
このサタンの支配下で、私たちは生まれました。
そのままでいるなら、私たちの支配者は悪魔であり、私たちは悪魔の子です。

キリストが来てくださったのは、この支配者を、私たちの中から追い出すためです。

ヨハネの福音書
12:31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
12:32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。

実際、キリストは来て、この世の君を追い出し、目に見えないところで、神の国を造り始めました。

ルカの福音書
17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

神の国の到来とは、
私たちの心からこの世の君が追い出され、
神の国の価値観が造り上げられることです。

これこそが、御国みくにの福音、私たちの希望です。

この福音を信じますか?
これを信じ、方向転換できるかが重要なのです。

方向転換したパウロ

かつてパウロは、クリスチャンを投獄し、死刑に票を投じていました。

使徒の働き
26:9 わたし自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。
26:10 そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました

そんなパウロが、しゅにあって方向転換し、神の国の一員として働き始めたのです。

ピリピ人への手紙
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている──

パウロはすべてのものを失いましたが、その失ったものを、糞土のように思っていると書いています。
これこそが、100%神に仕えるようになった人の姿です。

私たちも、本当にキリストを知るなら、必ずそのようになれます。
そうなることこそ、私たちの中に、神の国が形成されるということです。

あなたの主人は本当に聖書の神ですか

ところで、私たちは100%神様に仕えようとしているでしょうか。
本当の本当に、「聖書の神」を神としているでしょうか。

というのも、教会の中に、自分を神だと宣言する者が現れると預言されているからです。

テサロニケ人への手紙 第二
2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する
(途中省略)
2:9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、
2:10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

これは必ず起こることです。
聖書の預言がうそであった試しはないからです。

それなら、どうやって不法の者に対抗すればいいのでしょうか。

その対抗手段を、神様はちゃんと人に与えておられます。

不法の者に対抗するための贈り物

その贈り物とは、安息日です。

マルコの福音書
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

人のためにあるというこの贈り物は、一体、何のために与えられたのでしょうか。

聖書は次のように教えます。

エゼキエル書
20:20 わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。

これは、神と私たちとのあいだのしるしであって、しゅが私たちの神であることを確認するためにあるのです。

もしも、いつの間にか安息日を聖別しなくなっていたなら、そのときこそ、しゅが私たちの神となっていないことを知ることができるのです。

もうおわかりのとおり、教会はすでにそうなっています。
「不法の者」が現れているからです。
それはローマ教皇にほかなりません。

この勢力が、神の宮(すなわち教会)に座し、安息日を日曜礼拝に変えてしまったのです。

それなら、安息日を守る教会はどこへ消えてしまったのでしょうか。
歴史を勉強すれば分かります。彼らはローマカトリックによって、ことごとく殺されてしまったのです。

ここで、もう一度、思い出してください。
私たちの戦いは、支配と権威に対する戦いです。

創造の記念日である安息日を祝わず、日曜礼拝に固執するなら、あなたはローマ教皇の支配と権威に屈しているのです。

受け入れがたいことかもしれませんが、どうか、へりくだって、真剣に考えてみてください。

「不法」とは何でしょう。
それは法に背くことです。その法とは、神の律法にほかなりません。

「不法」を行う人がどうなるか、しゅは何度も教えているはずです。

マタイの福音書
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

マタイの福音書
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
13:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

おわりに

私たちのすべき戦いとは、誰の支配に入るかという戦いです。

悪魔の子か、神の子か、それは律法に違反するかどうかで区別されると聖書は教えます。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです
(途中省略)
3:9 神から生まれた者はだれも、を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、を犯すことができないのです。
3:10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

ここでいう律法とは、天地が滅び行くまで一点一画も廃れず、一つも破ってはいけないとしゅが教える律法、十戒じっかいのことです。

十戒じっかいを見ればわかるように、安息日を無視することは、です。
これを無視するなら、その人は神のしるしを失った状態であり、神でないものに従っているのだと聖書は教えます。

もう、かたくなになる必要はありません。
安息日を喜びの日とし、この聖日を尊ぶなら、どんなにか神様と親密になれることでしょう。
何の後ろめたさもなく、100%神様に従える人の心は、どんなにか晴れやかなことでしょう。

このブログを信じる必要はありません。
しかし、聖書は信じてください御言葉みことばが、サタンの支配からあなたを脱出させてくれるはずです。

どうか、聖書を信じてください
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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