安息日とは何なのか
はじめに
多くのクリスチャンが、安息日について正しく学ぶ機会を失っています。
そのため、安息日に対する偏見や、間違った理解が広まっています。
一度、聖書からきちんと確認してみませんか?
安息日を一言でいえば「神様と過ごす日」です。
偏見をなくすために、今回は「安息日」と呼ばず、「神様と過ごす日」と呼びながら、ご一緒に確認していきましょう。
「神様と過ごす日」はいつできたか
多くの人が、「神様と過ごす日」はモーセ律法にて制定された、と思い込んでいます。
これは違います。
「神様と過ごす日」は、世の初めからありました。
この恵みに初めて与ったのはアダムです。
アダムがこのことを伝えてきたからこそ、「神様と過ごす日」が聖書に記されたのです。
アダムの伝えた「神様と過ごす日」
「神様と過ごす日」を、アダムとエバは毎週楽しみにしていたことでしょう。
その日だけは園の管理を休み、丸一日、イエス様と語り合って過ごしたことでしょう。
アダムが130歳のとき、セツが生まれ、ともに「神様と過ごす日」を祝うようになりました。
アダムが235歳のとき、孫のエノシュが生まれ、ともに「神様と過ごす日」を祝うようになりました。
325歳のとき、ひ孫のケナンが生まれ、395歳のとき、ひひ孫のマハラルエルが生まれ、460歳のとき、ひひひ孫のヤレデが生まれ、622歳のとき、ひひひひ孫のエノクが生まれ、687歳のとき、ひひひひひ孫のメトシェラが生まれ、874歳のとき、ひひひひひひ孫のレメクが生まれ、みんなで「神様と過ごす日」を祝うようになりました。
レメクからノアが生まれたとき、もうアダムはいませんでしたが、「神様と過ごす日」を守る大勢の家族がいたので、ノアもこの日を祝うようになりました。
アブラハムの時代
洪水を経て、ノアが死んだとき、アブラハムは58歳でした。
58年のあいだに、ノアから直接、神様の教えを聞く機会があったかもしれません。
殺すな、姦淫するな、「神様と過ごす日」を聖とせよ──
これらの教えは世の初めからずっと受け継がれてきましたが、やがて背を向ける人たちが増えてきました。
そこで神様は、アブラハムを選び、彼から聖なる国民を起こすことにしました。
アブラハムが神様の教えを守る人だったから、と聖書に書かれています。
モーセの時代
アブラハムの子孫たちは聖なる国民として数を増やし、やがてエジプトに移り住むことになりました。
ところが、エジプトに移り住んだ民は、異国の風習にのまれ、徐々に神様の教えを忘れ始めたのです。
そこで神様は、モーセを選び、民をエジプトから脱出させました。
そうして旅の途中、マナを与え、七日目が聖別されていることを思い出させたのです。
こうして民は、アダム以来伝えられてきた教えを思い出しました。
彼らが山にたどり着いたとき、神様はそれを石の板に書き記しました。
永遠の律法と、一時的な律法
殺すな、姦淫するな、「神様と過ごす日」を聖とせよ──
これらの教えは、ある日突然考え出されたものではありません。アダム以来ずっと守られてきた、神の律法なのです。
そして一つも廃されることのない、永遠の律法だとイエス様は言いました。
一方、モーセ律法は、あとから加えられた、一時的な律法です。
モーセ律法の役割は、神の民を異国の風習から隔て、キリストの出現を予表することでした。
それで、イエス様が来て、異邦人にも救いが及んだとき、モーセ律法は廃されたのです。
この二つの律法の区別をしっかりと覚えてください。
そして、「神様と過ごす日」は、永遠の律法に属するものであることを、しっかりと覚えてください。
「神様と過ごす日」に対する偏見
ある人はこう言います。
「私たちはすでに神の子となったのだから、もはや『神様と過ごす日』をもつ必要はない!」
これがいかにおかしな発言か、もうわかりますね。
神の子となったからこそ、「神様と過ごす日」をもつのです。
またある人はこう言います。
「私たちは『神様と過ごす日』の束縛から解放されている!」
なんと悲しい発言でしょう。
「神様と過ごす日」を束縛だと思うなら、守る必要はありません。
喜んでこの日を過ごす人だけが、この日を聖とできるのです。
またある人はこう言います。
「『神様と過ごす日』はユダヤ人のもので、異邦人である私たちが守る必要はない!」
違いますね。
「神様と過ごす日」は、ユダヤ人が現れる前から人類に与えられていました。
これは創造の記念日であり、創造主が私たちの神であることのしるしなのです。
イエス様は「神様と過ごす日」について教えなかった?
ある人は「イエス様は『神様と過ごす日』について教えなかったので、それはもうないのだ」と言います。
これは強引な解釈であるばかりか、真っ赤な嘘です。
イエス様は、ちゃんと「神様と過ごす日」が私たちのためにあるのだと教えておられます。
そればかりか、「神様と過ごす日」に祝われるべき主は、ご自身であると教えておられます。
感謝なことに、主はこの日を守る人が絶えないように、ずっと保護してくださいました。
そのため、アダム以来、七日ごとに繰り返されてきたこの日が、土曜日(聖書の区切りでは金曜の日没から土曜の日没まで)であることがわかっているのです。
おわりに
多くのクリスチャンがそうであるように、私もまた「神様と過ごす日」を嫌っていました。
明確な理由はありません。偏見を刷り込まれていたのです。
同じように、今も「神様と過ごす日」を嫌っているクリスチャンがたくさんいます。
一体、いつから嫌いにさせられたのか、どうして嫌いにさせられたのか、一度考えてみてはどうでしょうか。
これは束縛の日ではありません。
人が第七日を神様とともに過ごすのは、神様とともに過ごしたいからです。
そして何よりも、神様がそう決められたからです。
これに逆らう理由があるでしょうか。
神様の教えを愛し、「神様と過ごす日」を守る人々を、主はまもなく集めに来られるのだと聖書は教えます。
聖書に立ち返った本物のクリスチャンたちは、次々に安息日を取り戻しています。
あなたはどうしますか?
聖書の正しい教えに立ち返り、主を迎える準備をしましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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