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安息日とは何なのか

はじめに

多くのクリスチャンが、安息日について正しく学ぶ機会を失っています。

そのため、安息日に対する偏見や、間違った理解が広まっています。

一度、聖書からきちんと確認してみませんか?

安息日を一言でいえば「神様と過ごす日」です。

偏見をなくすために、今回は「安息日」と呼ばず、「神様と過ごす日」と呼びながら、ご一緒に確認していきましょう。

「神様と過ごす日」はいつできたか

多くの人が、「神様と過ごす日」はモーセ律法にて制定された、と思い込んでいます。

これは違います。
「神様と過ごす日」は、世の初めからありました。

創世記
2:1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2:2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

この恵みに初めてあずかったのはアダムです。
アダムがこのことを伝えてきたからこそ、「神様と過ごす日」が聖書に記されたのです。

アダムの伝えた「神様と過ごす日」

「神様と過ごす日」を、アダムとエバは毎週楽しみにしていたことでしょう。
その日だけはそのの管理を休み、丸一日、イエス様と語り合って過ごしたことでしょう。

アダムが130歳のとき、セツが生まれ、ともに「神様と過ごす日」を祝うようになりました。

アダムが235歳のとき、孫のエノシュが生まれ、ともに「神様と過ごす日」を祝うようになりました。

325歳のとき、ひ孫のケナンが生まれ、395歳のとき、ひひ孫のマハラルエルが生まれ、460歳のとき、ひひひ孫のヤレデが生まれ、622歳のとき、ひひひひ孫のエノクが生まれ、687歳のとき、ひひひひひ孫のメトシェラが生まれ、874歳のとき、ひひひひひひ孫のレメクが生まれ、みんなで「神様と過ごす日」を祝うようになりました。

レメクからノアが生まれたとき、もうアダムはいませんでしたが、「神様と過ごす日」を守る大勢の家族がいたので、ノアもこの日を祝うようになりました。

アブラハムの時代

洪水を経て、ノアが死んだとき、アブラハムは58歳でした。
58年のあいだに、ノアから直接、神様の教えを聞く機会があったかもしれません。

殺すな、姦淫かんいんするな、「神様と過ごす日」を聖とせよ──
これらの教えは世の初めからずっと受け継がれてきましたが、やがて背を向ける人たちが増えてきました。

そこで神様は、アブラハムを選び、彼から聖なる国民を起こすことにしました。
アブラハムが神様の教えを守る人だったから、と聖書に書かれています。

創世記
26:4 またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

モーセの時代

アブラハムの子孫たちは聖なる国民として数を増やし、やがてエジプトに移り住むことになりました。

ところが、エジプトに移り住んだ民は、異国の風習にのまれ、徐々に神様の教えを忘れ始めたのです。

そこで神様は、モーセを選び、民をエジプトから脱出させました。
そうして旅の途中、マナを与え、七日目が聖別されていることを思い出させたのです。

出エジプト記
16:28 そこで主はモーセに言われた、「あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか。
16:29 見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである。おのおのその所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない」。

こうして民は、アダム以来伝えられてきた教えを思い出しました。
彼らが山にたどり着いたとき、神様はそれを石の板に書き記しました。

永遠の律法と、一時的な律法

殺すな、姦淫かんいんするな、「神様と過ごす日」を聖とせよ──
これらの教えは、ある日突然考え出されたものではありません。アダム以来ずっと守られてきた、神の律法なのです。
そして一つも廃されることのない、永遠の律法だとイエス様は言いました。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法(神の律法)の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

一方、モーセ律法は、あとから加えられた、一時的な律法です。
モーセ律法の役割は、神の民を異国の風習から隔て、キリストの出現を予表することでした。
それで、イエス様が来て、異邦人にも救いが及んだとき、モーセ律法は廃されたのです。

ガラテヤ人への手紙
3:19 それでは、律法(モーセ律法)はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

この二つの律法の区別をしっかりと覚えてください。
そして、「神様と過ごす日」は、永遠の律法に属するものであることを、しっかりと覚えてください。

「神様と過ごす日」に対する偏見

ある人はこう言います。
「私たちはすでに神の子となったのだから、もはや『神様と過ごす日』をもつ必要はない!」

これがいかにおかしな発言か、もうわかりますね。

神の子となったからこそ、「神様と過ごす日」をもつのです。

またある人はこう言います。
「私たちは『神様と過ごす日』の束縛から解放されている!」

なんと悲しい発言でしょう。

「神様と過ごす日」を束縛だと思うなら、守る必要はありません。
喜んでこの日を過ごす人だけが、この日を聖とできるのです。

またある人はこう言います。
「『神様と過ごす日』はユダヤ人のもので、異邦人である私たちが守る必要はない!」

違いますね。

「神様と過ごす日」は、ユダヤ人が現れる前から人類に与えられていました。
これは創造の記念日であり、創造主が私たちの神であることのしるしなのです。

エゼキエル書
20:20 わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。

イエス様は「神様と過ごす日」について教えなかった?

ある人は「イエス様は『神様と過ごす日』について教えなかったので、それはもうないのだ」と言います。

これは強引な解釈であるばかりか、真っ赤なうそです。

イエス様は、ちゃんと「神様と過ごす日」が私たちのためにあるのだと教えておられます。

マルコの福音書
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

そればかりか、「神様と過ごす日」に祝われるべきしゅは、ご自身であると教えておられます。

ルカの福音書
6:5 また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」

感謝なことに、しゅはこの日を守る人が絶えないように、ずっと保護してくださいました。

そのため、アダム以来、七日ごとに繰り返されてきたこの日が、土曜日(聖書の区切りでは金曜の日没から土曜の日没まで)であることがわかっているのです。

おわりに

多くのクリスチャンがそうであるように、私もまた「神様と過ごす日」を嫌っていました。

明確な理由はありません。偏見を刷り込まれていたのです。

同じように、今も「神様と過ごす日」を嫌っているクリスチャンがたくさんいます。

一体、いつから嫌いにさせられたのか、どうして嫌いにさせられたのか、一度考えてみてはどうでしょうか。

これは束縛の日ではありません。
人が第七日を神様とともに過ごすのは、神様とともに過ごしたいからです。
そして何よりも、神様がそう決められたからです。

これに逆らう理由があるでしょうか。

神様の教えを愛し、「神様と過ごす日」を守る人々を、しゅはまもなく集めに来られるのだと聖書は教えます。

イザヤ書
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は──
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

聖書に立ち返った本物のクリスチャンたちは、次々に安息日を取り戻しています
あなたはどうしますか?

聖書の正しい教えに立ち返り、しゅを迎える準備をしましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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