クリスチャンであるあなたが選ぶべきこと
はじめに
クリスチャンの中には、十戒を守る人と、守らない人がいます。
「え? 十戒を守る人がいるの?」とか、
「十戒を守らない人がいるの?」と驚く方もいるかもしれません。
そうなのです。
ここで、一度考えてみてください。
十戒を守るか、守らないか、それを、あなたはいつ決めたのでしょうか。
あなたはそれを、本当に聖書から選んだのでしょうか。
多くの人は、聖書から選んだわけではない
十戒を守るか、守らないか、それを聖書から選んだ人はとても少ないと思います。
多くのクリスチャンは、最初に聞いた教えをそのまま信じています。
かつての私もそうでした。
しかし、これは大変危険なことです。
なぜなら、真理と偽りを、まるでギャンブルのように選んでしまっているからです。
神の子か、悪魔の子か
聖書は、神の子と悪魔の子の区別について、次のように教えます。
罪を犯す者、義を行わない者、兄弟を愛さない者を、聖書は悪魔の子と呼びます。
ここで重要な問題が出て来ます。
罪とは何でしょう? 義とは、そして愛とは何でしょう?
ある人々は、先祖を敬うことが愛だと言って、仏壇に手を合わせます。
またある人々は、愛のゆえに、聖戦と称した殺戮まで行います。
これではいけません。
人々が自分勝手な愛を行うなら、地球は悪魔の巣窟となってしまうでしょう。
罪とは何か、義とは何か、また愛とは何か、それを、私たちは神様から教えてもらう必要があります。
そのために与えられたのが、律法です。
律法が、罪を教えてくれるのです。
それで聖書は、律法に違反することが罪だと教えているのです。
一つでも破ってはいけない
イエス様は次のように言われました。
一つでも・・・この、天地が滅び行くまで、一点、一画も廃ることのない律法とは、一体何でしょうか。
続きを見てみましょう。
十戒です。
主は、パリサイ派の間違った教えを打ち消して、
十戒の教える本当の基準について語っておられるのです。
聖書を見ればわかるとおり、主は何度も「殺すな」「姦淫するな」と教えておられます。
十の戒めがすべて語られなかったからといって、省略された戒めは破ってよいと考えてはなりません。
永遠の律法
十戒は、聖書の中で唯一、神様の直筆によるものです。
十戒が神の指によって石の板に書かれたのは、これが永遠の律法であることを教えるためです。
石の板に書かれる前から、殺人や姦淫が罪とされていたように、十戒は世の初めからあった神の原則です。
十戒だけが契約の箱に入れられ、十戒だけが聖所に運び込まれました。
神様は、この律法を特別視しておられるのです。
それなのに、クリスチャンがこれを特別視しない理由があるでしょうか。
十戒は、今も天の聖所に置かれており、有効であることを覚えてください。
天の聖所には、けっして、空っぽの箱が置かれているのではありません。
また、訂正線の引かれた石の板が入っているのでもありません。
安息日も含めたすべての戒めが、この箱に収められていることを覚えてください。
廃された律法
一方、廃された律法もあります。
あとから加えられたもの。
キリストが来るまで存続するだけのもの。
仲介者の手によって制定されたもの。
これはモーセ律法です。
モーセ律法の役割は、イスラエルの民を異邦人の風習から守ることでした。
そのため、キリストが来て、異邦人に救いが及んだときに、廃されたのです。
私たちの守るべき律法
もうおわかりかと思いますが、私たちの守るべき律法は、十戒です。
十戒がなければ、人は自分勝手な愛を行うしかありません。
十戒があるからこそ、私たちは正しい愛を行えるのです。
「互いに愛し合えば、もはや姦淫してよい、殺してよい、むさぼってよい」などと読まないように気をつけてください。
互いに愛し合うことと、十戒を全うすることは、同じであると書かれているのです。
神の子と悪魔の子の区別も忘れてはいけません。
罪を犯す者、義を行わない者、兄弟を愛さない者は、悪魔の子です。
十戒に同意しないなら、けっして神の子になれないことを覚えてください。
永遠の命を受けるには
私たちが永遠の命を受けるには、何をしたらよいでしょうか。
イエス様は、けっして嘘をついたのではありません。
人は律法の行いによって救われるのではありませんが、永遠の命を受けるためには、十戒を守り行う必要があるのです。
なぜなら、罪を犯す者、義を行わない者、兄弟を愛さない者は、神の子となれないからです。
これを守れるようにしてくれるのが、新約です。
新約を受けるのは、私たちが律法を守ったからではありません。
私たちは、この恵みを受け取りさえすればよいのです。
思いの中に十戒がないなら、神の宮となってはおらず、新約を受けていないことに注意してください。
受け取ろうとしない人には、この契約は与えられないのです。
おわりに
かつての私は、思いの中に十戒が納められておらず、神の宮となっていませんでした。
当然、十戒を守らせようとする聖霊の導きもありませんでした。
理由は、最初に足を運んだ教会の教えを、鵜呑みにしていたからです。
「ギャンブルで外れを引いてしまった」と言いたいところですが、
本当は、真理の学びを人任せにしていた自分に責任があるのです。
同じように、多くのクリスチャンが、自分で真理を学ばず、ギャンブル任せにしています。
本当に主を愛するなら、自ら真理を学ばなくてはなりません。
教派の教えを投げ捨てて、よちよちクリスチャンから再スタートするのです。
初代教会の人々を考えてみてください。
彼らは皆、パリサイ派やサドカイ派の教えを捨て、一からやり直した人々です。
全員が、よちよちクリスチャンだったのです。
騙されたと思って、一度やってみてください。
常識だと思っていたものを手放してみると、本当に聖書が読みやすくなるのです。
真理に立ちたいのなら、人の教えを残らず捨てて、聖書のみに立ち返らなくてはなりません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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