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クリスチャンであるあなたが選ぶべきこと

はじめに

クリスチャンの中には、十戒じっかいを守る人と、守らない人がいます。

「え? 十戒じっかいを守る人がいるの?」とか、
十戒じっかいを守らない人がいるの?」と驚く方もいるかもしれません。

そうなのです。

ここで、一度考えてみてください。

十戒じっかいを守るか、守らないか、それを、あなたはいつ決めたのでしょうか。
あなたはそれを、本当に聖書から選んだのでしょうか。

多くの人は、聖書から選んだわけではない

十戒じっかいを守るか、守らないか、それを聖書から選んだ人はとても少ないと思います。

多くのクリスチャンは、最初に聞いた教えをそのまま信じています。

かつての私もそうでした。

しかし、これは大変危険なことです。

なぜなら、真理偽りを、まるでギャンブルのように選んでしまっているからです。

神の子か、悪魔の子か

聖書は、神の子と悪魔の子の区別について、次のように教えます。

ヨハネの手紙 第一
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

罪を犯す者、義を行わない者、兄弟を愛さない者を、聖書は悪魔の子と呼びます。

ここで重要な問題が出て来ます。
罪とは何でしょう? 義とは、そして愛とは何でしょう?

ある人々は、先祖を敬うことがだと言って、仏壇に手を合わせます。
またある人々は、のゆえに、聖戦と称した殺戮さつりくまで行います。

これではいけません。
人々が自分勝手な愛を行うなら、地球は悪魔の巣窟となってしまうでしょう。

罪とは何か義とは何か、また愛とは何か、それを、私たちは神様から教えてもらう必要があります。

そのために与えられたのが、律法です。

ローマ人への手紙
7:7 ──律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。

律法が、罪を教えてくれるのです。
それで聖書は、律法に違反することが罪だと教えているのです。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

一つでも破ってはいけない

イエス様は次のように言われました。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう──

一つでも・・・この、天地が滅び行くまで、一点、一画も廃ることのない律法とは、一体何でしょうか。
続きを見てみましょう。

マタイの福音書
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない
5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう

十戒じっかいです。
しゅは、パリサイ派の間違った教えを打ち消して、
十戒じっかいの教える本当の基準について語っておられるのです。

聖書を見ればわかるとおり、しゅは何度も「殺すな」「姦淫かんいんするな」と教えておられます。
十の戒めがすべて語られなかったからといって、省略された戒めは破ってよいと考えてはなりません。

ヤコブの手紙
2:10 なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである
2:11 たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。
2:12 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい

永遠の律法

十戒じっかいは、聖書の中で唯一、神様の直筆によるものです。
十戒じっかいが神の指によって石の板に書かれたのは、これが永遠の律法であることを教えるためです。

石の板に書かれる前から、殺人や姦淫かんいんが罪とされていたように、十戒じっかいは世の初めからあった神の原則です。

十戒じっかいだけが契約の箱に入れられ、十戒じっかいだけが聖所に運び込まれました。
神様は、この律法を特別視しておられるのです。

それなのに、クリスチャンがこれを特別視しない理由があるでしょうか。

十戒じっかいは、今も天の聖所に置かれており、有効であることを覚えてください。

ヨハネの黙示録
11:19 そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた──

天の聖所には、けっして、空っぽの箱が置かれているのではありません。
また、訂正線の引かれた石の板が入っているのでもありません。
安息日も含めたすべての戒めが、この箱に収められていることを覚えてください。

廃された律法

一方、廃された律法もあります。

ガラテヤ人への手紙
3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

  • あとから加えられたもの。

  • キリストが来るまで存続するだけのもの。

  • 仲介者の手によって制定されたもの。

これはモーセ律法です。
モーセ律法の役割は、イスラエルの民を異邦人の風習から守ることでした。
そのため、キリストが来て、異邦人に救いが及んだときに、廃されたのです。

私たちの守るべき律法

もうおわかりかと思いますが、私たちの守るべき律法は、十戒じっかいです。

十戒じっかいがなければ、人は自分勝手な愛を行うしかありません。
十戒じっかいがあるからこそ、私たちは正しい愛を行えるのです。

ローマ人への手紙
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

「互いに愛し合えば、もはや姦淫かんいんしてよい、殺してよい、むさぼってよい」などと読まないように気をつけてください

互いに愛し合うことと、十戒じっかいを全うすることは、同じであると書かれているのです。

神の子悪魔の子の区別も忘れてはいけません。
罪を犯す者、義を行わない者、兄弟を愛さない者は、悪魔の子です。
十戒じっかいに同意しないなら、けっして神の子になれないことを覚えてください。

永遠の命を受けるには

私たちが永遠の命を受けるには、何をしたらよいでしょうか。

マルコの福音書
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
10:18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
10:19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。

イエス様は、けっしてうそをついたのではありません。

人は律法の行いによって救われるのではありませんが、永遠の命を受けるためには、十戒じっかいを守り行う必要があるのです。

なぜなら、罪を犯す者、義を行わない者、兄弟を愛さない者は、神の子となれないからです。

これを守れるようにしてくれるのが、新約です。
新約を受けるのは、私たちが律法を守ったからではありません。
私たちは、この恵みを受け取りさえすればよいのです。

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

思いの中に十戒じっかいがないなら、神の宮となってはおらず、新約を受けていないことに注意してください。
受け取ろうとしない人には、この契約は与えられないのです。

おわりに

かつての私は、思いの中に十戒じっかいが納められておらず、神の宮となっていませんでした
当然、十戒じっかいを守らせようとする聖霊の導きもありませんでした。

理由は、最初に足を運んだ教会の教えを、みにしていたからです。

「ギャンブルで外れを引いてしまった」と言いたいところですが、
本当は、真理の学びを人任せにしていた自分に責任があるのです。

同じように、多くのクリスチャンが、自分で真理を学ばず、ギャンブル任せにしています。

本当にしゅを愛するなら、自ら真理を学ばなくてはなりません。
教派の教えを投げ捨てて、よちよちクリスチャンから再スタートするのです。

初代教会の人々を考えてみてください。
彼らは皆、パリサイ派やサドカイ派の教えを捨て、一からやり直した人々です。
全員が、よちよちクリスチャンだったのです。

マタイの福音書
18:3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう

だまされたと思って、一度やってみてください。
常識だと思っていたものを手放してみると、本当に聖書が読みやすくなるのです。

真理に立ちたいのなら、人の教えを残らず捨てて、聖書のみに立ち返らなくてはなりません。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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