「モーセの十戒」なんてありません
はじめに
クリスチャンであってもなくても、「モーセの十戒」という言葉を、一度は聞いたことがあるかと思います。
ところが、聖書にそんな言葉は出て来ません。
これは人間の作った言葉なのです。
では、聖書はこれを何と呼んでいるのでしょうか。
ご一緒に確認してみましょう。
聖書にあるのは「モーセの律法」と「神の戒め」
聖書には「モーセの律法」という言葉が何度も出て来ます。
「モーセの」と付くのは、モーセがこれを書いたからです。
一方、十戒には「モーセの」という言葉は絶対に使われません。
聖書はこれを「神の戒め」と呼びます。
なぜなら、これはモーセが書いたのではなく、神の指によって書かれたからです。
このように、聖書には「モーセの十戒」などなく、
「モーセの律法」と「神の戒め」という二つの律法があるだけです。
モーセが書いたから「モーセの律法」。
神が書いたから「神の戒め」。
これはとても大切な認識です。
聖書の中で、十戒だけが神の直筆で書かれたのです。
それは、これが神の原則であり、絶対に変わることのない義の指標だからです。
当然、アブラハムもこれを守っていました。
このように、十戒はモーセの時代に考え出されたのでも、モーセが書いたものでもありません。
それを「モーセの十戒」と呼ぶ理由は、何もないのです。
「モーセの十戒」と呼ぶことの問題点
「神の戒め」を「モーセの十戒」と呼ぶことには、二つの問題点があります。
一つは、「神の戒め」がモーセの時代にできたと思わせてしまう点です。
もう一つは、「神の戒め」とは何なのか、分からなくしてしまう点です。
「神の戒め」が何なのか分からない人は、
「神の戒めとは、互いに愛し合いなさいという命令のことである」
と理解してしまうでしょう。
しかしそうではありません。
「互いに愛し合うこと、これが十戒です」
と聖書は言っているのです。
もう一度言います。
「互いに愛し合うこと、これが十戒の精神である」
と聖書は言っているのです。
十戒とモーセ律法の区別
今、自分の考えを脇に置いて、謙遜になってみてください。
私たちは常に、聖書を見て、自分の考えを変えていいのです。
今日、十戒とモーセ律法の区別を聖書から読み取ってみましょう。
アブラハムの契約から430年後にできた律法とは、もちろんモーセ律法のことです。
そしてそれは「約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの」と書かれています。
一方、十戒については、次のように書かれています。
これらを同じ律法に当てはめることはできません。
またこうも書かれています。
主はわざわざ「モーセ律法の離縁」と「十戒の姦淫」を比較して、こう言っておられるのです。
「モーセ律法の離縁」と「十戒の姦淫」
ここでの焦点は二つです。
モーセは民が頑なので妻を出すことを許したということ
しかし本来、それは姦淫につながるということ
では、モーセの言ったことを見てみましょう。
「恥ずべきことのあるのを見て」とあるので、「不品行のゆえでなくて」というイエス様の言葉と同じだと思ってしまうかもしれません。
けれど、不品行を行った女が、ほかの人に嫁ぐことはないのです。
ここに「好まなくなったならば」という余地はありません。
「恥ずべきこと(エルヴァー)」とは、直訳すると「裸」です。
「裸を見て、好まなくなったならば──」と言っているのです。
そもそも、素直に読むなら、イエス様が教えているのは「モーセ律法では許されていても、神の戒めでは許されていない」ということです。
ここから分かるように、「神の戒め」と「モーセ律法」は違うものです。
この区別を、私たちはしっかりと覚える必要があります。
神の義は、絶対に変化することはありません。
それを示したものが「神の戒め」です。
一方、社会生活のルールは変化することがあります。
それを示したものが「モーセ律法」なのです。
モーセ律法は廃された
ユダヤ人を異邦人から隔離すること、それがモーセ律法の大切な役割でした。
実際、イエス様の時代まで、割礼によって二つのものは明確に区別され、食物規定によって二つのものの交わりは断絶していました。
そこへ、約束されていた子孫(イエス・キリスト)が来て、異邦人にも救いが及んだとき、隔ての壁は廃されたのです。
この「廃棄した」という言葉と、「一点一画も廃れない」という言葉を、同じ律法に当てはめることはできません。
「廃棄した」のはモーセ律法であり、
「一点一画も廃れない」のは十戒です。
このことを受け入れないなら、聖書のあらゆる箇所をこじつけて読むことになってしまいます。
割礼から見る十戒とモーセ律法の区別
モーセ律法には、次のような命令があります。
もちろん、主イエスはこの律法を守っていました。
これがモーセ律法であることは、主ご自身が保証しておられます。
では、隔ての壁が廃された今はどうなのでしょうか。
聖書は次のように教えます。
ここにも、「モーセ律法」と「神の戒め」の明確な区別があります。
「大事なのは、ただ神の戒めを守ること」これを私たちは素直に受け入れる必要があります。
それでも割礼を受けようとする人には、次のように書かれています。
人が律法の中身を選り好みして守ることはできません。
それが有効だと考えるなら、全部を行う義務があると聖書は言っているのです。
以上のことから言える結論はこうです。
モーセ律法を守るかどうかは問題ではなく、大事なのはただ神の戒めを守ることである。それにもかかわらず、モーセ律法を守るなら、その全部を行う義務がある。
それ以外の解釈があるでしょうか。
主が歩かれたように歩くとは
主イエスは割礼を受けていました。それは隔ての壁が有効であり、彼がユダヤ人だったからです。
ところで、
主がモーセ律法を守っていたので、私たちも守るべきだと主張する人たちがいます。それが、彼が歩かれたように歩くことだというのです。
この結論は、もう出ているはずです(使徒15:28)。
主が歩かれたように歩くとは、そういうことではありません。
このとおり、主が歩かれたように歩くとは、「神の戒め」を守ることです。
決して、割礼やモーセ律法のことではありません。
もしも隔ての壁が有効なら、私たちもそれを守るべきでしょう。
しかし主は、数々の規定からなる戒めの律法を廃棄したのです。これに反逆してはいけません。
「主と同じ服装をしろ」
「主と同じものを食べろ」
もう、そのような教えに惑わされる必要はないのです。
おわりに
現代、「モーセの十戒」という言葉が、教会に様々な混乱を招いています。
そのせいで、十戒とモーセ律法を区別できず、十戒は廃されたとか、モーセ律法は一点一画も廃れないという、両極端の思想が生まれてしまっています。
一体誰が、こんな言葉を作ったのでしょうか。
少なくとも、それは聖書の言葉ではありません。
十戒は世の初めからあった、神の原則です。
それを聖書は「神の戒め」と呼び、守るように教えているはずです。
注意すべきは、これがただ「戒め」と呼ばれることもあり、「律法」と書かれることもある点です。
その場合は、文脈で判断するしかありません。
とはいえ、それほど難しいことではありません。
「殺すな」「姦淫するな」とあったら、それは十戒です。
その二つを聞くだけで、私たちは十戒のことだと判断しなければなりません。
ここで主は「全部だ」とは言っておられないことに注意してください。
命に入りたければ、ただ十戒を守りなさいと言っているのです。
この区別を、どうか忘れないでください。
幕屋や神殿に納められたのが十戒だけであるように、神の宮に納められる律法は十戒だけなのです。
このことを素直に受け入れるなら、本当に聖書が読みやすくなります。
もう、頑になる必要はありません。私たちは幼子のように考えを変えていいのです。
本当のへりくだりとは何でしょうか。
それを思い出して、聖書を読んでみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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