見出し画像

「モーセの十戒」などない

はじめに

クリスチャンであってもなくても、「モーセの十戒じっかいという言葉を、一度は聞いたことがあるかと思います。

ところが、聖書にそんな言葉は出て来ません
これは人間の作った言葉なのです。

では、聖書はこれを何と呼んでいるのでしょうか。
ご一緒に確認してみましょう。

聖書にあるのは「モーセの律法」

聖書には「モーセの律法」という言葉が何度も出て来ます。

コリント人への手紙 第一
9:9 すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。

「モーセの」と付くのは、モーセがこれを書いたからです。

一方、十戒じっかいには「モーセの」という言葉は絶対に使われません。

マタイの福音書
15:3 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。

聖書はこれを「神の戒め」と呼びます。
なぜなら、これはモーセが書いたのではなく、神の指によって書かれたからです。

これはとても大切な認識です。
十戒じっかいだけが神の直筆で書かれたのです。
それは、これが神の原則であり、絶対に変わることのない義の指標だからです。

当然、アブラハムもこれを守っていました。

創世記
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

このように、十戒じっかいはモーセの時代に考え出されたのでも、モーセが書いたものでもありません。
それを「モーセの十戒じっかいと呼ぶ理由は、何もないのです。

「モーセの十戒じっかい」と呼ぶことの問題点

「神の戒め」「モーセの十戒じっかいと呼ぶことには、二つの問題点があります。

一つは、十戒じっかいとモーセ律法を混同してしまう点です。
もう一つは、「神の戒め」が何なのか、分からなくしてしまう点です。

ヨハネの手紙 第一
3:23 神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒めです

聖書協会共同訳2018

「神の戒め」が何なのか分からない人は、
この聖句を次のように理解してしまいます。
「神の戒めとは、互いに愛し合いなさいという命令のことである」

しかしそうではありません。
「互いに愛し合うこと、これが十戒じっかいです」
と聖書は言っているのです。

もう一度言います。
「互いに愛し合うこと、これが十戒じっかいの精神である」
と聖書は言っているのです。

十戒じっかいとモーセ律法の区別

今、自分の考えを脇に置いて、謙遜になってみてください。
私たちは常に、聖書を見て、自分の考えを変えていいのです。

今日、十戒じっかいとモーセ律法の区別を聖書から読み取ってみましょう。

ガラテヤ人への手紙
3:17 わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。
3:18 もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。
3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

アブラハムの契約から430年後にできた律法とは、もちろんモーセ律法のことです。
そしてそれは「約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの」と書かれています。

一方、十戒じっかいについては、次のように書かれています。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

これらを同じ律法に当てはめることはできません。

またこうも書かれています。

ルカの福音書
16:17 しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい
16:18 すべて自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うものであり、また、夫から出された女をめとる者も、姦淫を行うものである。

しゅはわざわざ「モーセ律法の離縁」十戒じっかい姦淫かんいんを比較して、こう言っておられるのです。

「モーセ律法の離縁」と「十戒じっかい姦淫かんいん

マタイの福音書
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった
19:9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

ここでの焦点は二つです。

  • モーセは民がかたくななので妻を出すことを許したということ

  • しかし本来、それは姦淫かんいんにつながるということ

では、モーセの言ったことを見てみましょう。

申命記
24:1 人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。
24:2 女がその家を出てのち、行って、ほかの人にとつぎ──

「恥ずべきことのあるのを見て」とあるので、「不品行のゆえでなくて」というイエス様の言葉と同じだと思ってしまうかもしれません。
けれど、不品行を行った女が、ほかの人に嫁ぐことはないのです。

レビ記
20:10 人が他の人の妻と姦淫するなら、すなわち隣人の妻と姦淫するなら、姦淫した男も女も必ず死ななければならない

聖書協会共同訳2018

ここに「好まなくなったならば」という余地はありません。

「恥ずべきこと(エルヴァー)」とは、不品行のことではないのです。
直訳すると「裸」です。ノアが裸でいたときに使われた言葉です。
「裸を見て、好まなくなったならば──」と言っているのです。

そもそも、素直に読むなら、イエス様が教えているのは「モーセ律法では許されていても、神の戒めでは許されていない」ということです。

ここから分かるように、「神の戒め」「モーセ律法」は違うものです。
この区別を、私たちはしっかりと覚える必要があります。

神の義は、絶対に変化することはありません。
それを示したものが「神の戒め」です。

一方、社会生活のルールは変化することがあります。
それを示したものが「モーセ律法」なのです。

モーセ律法は廃された

ユダヤ人を異邦人から隔離すること、それがモーセ律法の大切な役割でした。

実際、イエス様の時代まで、割礼によって二つのものは明確に区別され、食物規定によって二つのものの交わりは断絶していました。

そこへ、約束されていた子孫(イエス・キリスト)が来て、異邦人にも救いが及んだとき、隔ての壁は廃されたのです。

エペソ人への手紙
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである──

この「廃棄した」という言葉と、「一点一画も廃れない」という言葉を、同じ律法に当てはめることはできません。

「廃棄した」のはモーセ律法であり、
「一点一画も廃れない」のは十戒じっかいです。

このことを受け入れないなら、聖書のあらゆる箇所をこじつけて読むことになってしまいます。

割礼から見る十戒じっかいとモーセ律法の区別

モーセ律法には、次のような命令があります。

レビ記
12:3 八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。

もちろん、しゅイエスはこの律法を守っていました。

ルカの福音書
2:21 八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。

これがモーセ律法であることは、しゅご自身が保証しておられます。

ヨハネの福音書
7:22 しかし、モーセはあなたがたに割礼を命じた──もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが──。だから、あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。
7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、私が安息日に人の全身を治してやったからといって腹を立てるのか。

聖書協会共同訳2018

では、隔ての壁が廃された今はどうなのでしょうか。

聖書は次のように教えます。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである

ここにも、「モーセ律法」「神の戒め」の明確な区別があります。
「大事なのは、ただ神の戒めを守ること」これを私たちは素直に受け入れる必要があります。

それでも割礼を受けようとする人には、次のように書かれています。

ガラテヤ人への手紙
5:3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある

人が律法の中身をり好みして守ることはできません。
それが有効だと考えるなら、全部を行う義務があると聖書は言っているのです。

以上のことから言える結論はこうです。
モーセ律法を守るかどうかは問題ではなく、大事なのはただ神の戒めを守ることである。それにもかかわらず、モーセ律法を守るなら、そのすべて行う義務がある。
それ以外の解釈があるでしょうか。

しゅが歩かれたように歩くとは

しゅイエスは割礼を受けていました。それは隔ての壁が有効であり、彼がユダヤ人だったからです。

ところで、
しゅがモーセ律法を守っていたので、私たちも守るべきだと主張する人たちがいます。それが、彼が歩かれたように歩くことだというのです。

使徒の働き
15:5 ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。

この結論は、もう出ているはずです(使徒15:28)。

しゅが歩かれたように歩くとは、そういうことではありません。

ヨハネの手紙 第一
2:3 私たちは、神の戒めを守るなら、それによって神を知っていることが分かります。
2:4 「神を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であり、その人の内に真理はありません。
2:5 しかし、神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛が真に全うされています。これによって、私たちが神の内にいることが分かります。
2:6 神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません

聖書協会共同訳2018

このとおり、しゅが歩かれたように歩くとは、「神の戒め」を守ることです。
決して、割礼やモーセ律法のことではありません。

もしも隔ての壁が有効なら、私たちもそれを守るべきでしょう。
しかししゅは、数々の規定からなる戒めの律法を廃棄したのです。これに反逆してはいけません。

しゅと同じ服装をしろ」
しゅと同じものを食べろ」

もう、そのような教えに惑わされる必要はないのです。

ヘブル人への手紙
13:9 様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

おわりに

現代、「モーセの十戒じっかいという言葉が、教会に様々な混乱を招いています。
そのせいで、十戒じっかいモーセ律法を区別できず、十戒じっかいは廃されたとか、モーセ律法は一点一画も廃れないという、両極端の思想が生まれてしまっています。

一体誰が、こんな言葉を作ったのでしょうか。
少なくとも、それは聖書の言葉ではありません。

十戒じっかいは世の初めからあった、神の原則です。
それを聖書は「神の戒め」と呼び、守るように教えているはずです。

ヨハネの手紙 第一
3:24 神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。

注意すべきは、これがただ「戒め」と呼ばれることもあり、「律法」と書かれることもある点です。
その場合は、文脈で判断するしかありません。

とはいえ、それほど難しいことではありません。
「殺すな」「姦淫かんいんするな」とあったら、それは十戒じっかいです。
その二つを聞くだけで、私たちは十戒じっかいのことだと判断しなければなりません。

マタイの福音書
19:17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。

ここでしゅ「全部だ」とは言っておられないことに注意してください。
命に入りたければ、ただ十戒じっかいを守りなさいと言っているのです。

この区別を、どうか忘れないでください。
幕屋や神殿に納められたのが十戒じっかいだけであるように、神の宮に納められる律法は十戒じっかいだけなのです。

列王記 第一
8:9 箱の内には二つの石の板のほか何もなかった。これはイスラエルの人々がエジプトの地から出たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで、それに納めたものである。

コリント人への手紙 第一
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

このことを素直に受け入れるなら、本当に聖書が読みやすくなります。
もう、かたくなになる必要はありません。私たちは幼子のように考えを変えていいのです。

本当のへりくだりとは何でしょうか。
それを思い出して、聖書を読んでみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)