見出し画像

私たちの帰る家

はじめに

聖書は、罪人である私たちのことを、家を飛び出していった放蕩ほうとう息子にたとえています(ルカ15:11)。

そんな私たちのことを、神様はどう見ておられるのでしょうか。
また、私たちの帰る家はどこにあるのでしょうか。

ご一緒に確かめてみましょう。

子となった私たち

キリストによって新しく生まれた私たちは、お父さんの子となりました。

ローマ人への手紙
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

それなのに、次のような聖句を取り上げて、「もうお父さんの教えを守る必要はなくなった」と教える人たちがいます。

使徒の働き
15:28 すなわち、聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた
15:29 それは、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、避けるということである。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい。以上」。

ここから、もう盗んでよい、偽証してよい、神の名をみだりに唱えてよい、安息日を聖別しなくてよい、そう受け取るのでしょうか。

違いますね。
この会議で話し合われたことは、モーセ律法についてであって、神の原則についてではありません(使徒15:1)。

次の聖句も、多くの人に誤解されています。

ローマ人への手紙
7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

「もうお父さんの教えを守る必要はなくなった」そう書いてあるでしょうか?

違いますね。
新しい霊によって仕えていると書いてあります。

すなわち、「律法にそう書いてあるから」という文字による仕え方ではなく、新しい霊から来る従順によって仕えているのです。

これこそが、新生であり、癒やしであり、悔い改めた人に与えられる罪からの救いです。

この恵みを与えようと、お父さんは窓の外を見つめ、毎日のように私たちの帰りを待っているのです。放蕩ほうとう息子である私たちを思い、「帰っておいで、帰っておいで」と待っているのです。

私たちが帰って来るなら、お父さんはどれほど喜ぶことでしょう。
その様子を、イエス様は次のように表現しています。

ルカの福音書
15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した

聖なる山

お父さんの待つ家、私たちの帰る場所のことを、聖書は「聖なる山」と呼びます。

詩編
3:4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。

聖なる山は、あるときはエルサレムのあるシオン山、あるときはホレブにあるシナイ山、またあるときはイエス様が変貌を遂げた山として表されてきました。

ペテロの手紙 第二
1:18 わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。

いずれの山からも、神の声が聞こえてきました。
聖なる山は、神のおられる場所を表しているからです。
この山に、お父さんは私たちを集めようとしておられるのです。

では、どのような人が集められるのでしょうか。大切なのはそこです。

イザヤ書
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は──
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

それは、しゅに連なる人。
それは、しゅに仕える人。
それは、しゅを愛する人。
それは、しゅしもべとなった人。
それは、すべて安息日を守って、これをけがさず、しゅの契約を堅く守る異邦人です。

こうなっていないことこそ、未だ教会が放蕩している証拠なのです。

これをわが聖なる山にこさせ

山へ逃げよ

「山へ逃げよ」そうイエス様は命じておられます。

マタイの福音書
24:15 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ
24:17 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。
24:18 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
24:19 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
24:20 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
24:21 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。

山へ逃げよ。それは、お父さんの所へ急いで戻れ、神の教えに立ち返れ、ということです。

「荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば」
そのような出来事が、人類の歴史で二度起こりました。

一度目は、アンティオコス・エピファネスが神殿にゼウス像を安置したとき。
(これはイエス様が語られるより前)

二度目は、ローマ軍がエルサレムを包囲したとき。
(こちらはイエス様が語られたあと)

しかし注意してください。
「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起る」とあるように、その二つの出来事は、本体ではありません

もう一つ注意してください。
「あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ」とあることです。
大患難のときでも安息日を守るような人たちに呼びかけているのです。

さて、この出来事は、もう起こっているかもしれません。
というのも、荒らす憎むべき者は、もう聖なる場所に立っているからです。
この者は、神の宮に君臨し、時と律法を変えてしまいました。
そのために、人類史上、かつてなく、今後もないような大背教が起こり、神の民がことごとく神の戒めを守らなくなっているのです。

ヨハネの黙示録
12:17 龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。

これが残りの子らの特徴です。
この特徴を持った人が、一体、どれほど残っているでしょうか。

これに気づいた人たちは、もう山へ逃げ始めています。
すなわち、新しい霊によってしゅに仕え、すべて安息日を守ってこれをけがさず、神の契約である十戒じっかいを堅く守り始めているのです。

あなたはどうしますか。
「聖なる山へ帰っておいで」と、お父さんは呼びかけています。
あなたは……どうしますか……

おわりに

「山へ逃げなさい。バビロンから出ておいで」
私たちが帰って来るのを、お父さんは涙ながらに待っておられます。

私は、たった一人、バビロンから出て来ました。
あなたも、たった一人、出て来ることになるかもしれません。
それでも、どこかに兄弟が散らされており、やがて集められます。
しゅがすぐに来て、聖なる山に私たちを集めてくださるのです。

帰りましょう。私たちの家へ。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)