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聖霊は誰に与えられるのか

はじめに

聖書は、聖霊を受けられる人と、受けられない人がいることを教えています。

どのような人が聖霊を受けられるのでしょうか。
また、聖霊を受けていることを確認する方法はあるのでしょうか。

ご一緒に、聖書から調べてみましょう。

神に従う人に与えられる

神に従う人に聖霊は与えられる、そう聖書は教えます。

使徒の働き
5:29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。
(途中省略)
5:32 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。

実際、聖霊を賜ったのは、神であるしゅイエスに従った人たちだけでした。
反対に、パリサイ派やサドカイ派などの、人の教えに従った人たちは、聖霊を受けなかったのです。

私たちも、牧師や神学者の教えをみにしているなら、聖霊を受けることはできません

マタイの福音書
23:10 ──あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。

大切なのは、人の教えに従わず、ただキリストだけに従うことです。
幸いにも、私たちは聖書を通して、直接キリストから学べます。
この恵みに感謝して、必ず聖書から真理を学びましょう。

信じるだけじゃないの?

従う者が聖霊を賜ると書かれた一方で、信じる者が聖霊を受けるとも書かれています。

エペソ人への手紙
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。

「従う」「信じる」、一体どちらが正しいのでしょうか。

先に結論を申し上げますと、その二つは同じものなのです。

日本語で「信じるのみ」「信仰のみ」というと、行動を伴わない印象になります。
しかし、聖書は日本語で書かれたのではありません。

「信仰」と訳されたヘブライ語の「エムナ」は、「真実」また「忠実」と訳されるべき言葉です。

ですから、次のように書かれているのです。

ヨハネの福音書
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

「信じる」「従う」。聖書において、これらは同じ意味であることを覚えてください。

日本語の「信じる」しか知らなかった方は、今日から聖書の「信じる」を行っていきましょう。

悔い改め

聖霊を受けるためには、悔い改めが必須です。

悔い改めとは、ただの後悔ではありません。方向転換が必要なのです。
「今後、私は神の教えに徹底的に服従します」という方向転換です。

こうして私たちは世を出て、神の国の一員となるのです。

そのような真の悔い改めをするなら、私たちの罪はゆるされます。その忠実(エムナ)が義と認められ、聖霊を受けるのです。行いによるのではありません。

テトスへの手紙
3:5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。

ここで注意してください。
「救われた」という完了形の表現は、救いに関して特殊な書き方なのです。

聖書の救いは、圧倒的に未来形で書かれています。

完了形で書かれる場合は、私たちが救いの道に入ったことを指します。けっして、天国行きが確定したというのではありません。

ヘブル人への手紙
6:4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
6:5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
6:6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である

これが聖書の教えです。
聖霊にあずかったとしても、その人が服従をやめるなら、救いは失われてしまうのです。

神の国を継ぐことの保証

私たちが服従を続け、聖霊をとどめているなら、それは神の国を継ぐことの保証となります。

エペソ人への手紙
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

思い出してください。
私たちは、神の教えに従うという悔い改めによって、天国の一員となったのです。
何度失敗しようと、この服従さえあれば、しゅは義と認めてくださいます。

けれども、先ほどの聖句にあったように、私たちが従うことをやめるなら、聖霊は失われてしまいます。

ですから、次のように教えられているのです。

テサロニケ人への手紙 第一
5:19 御霊を消してはいけない

十人の乙女についての教えも同様です。

マタイの福音書
25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった

あかりは教会、油は聖霊を指すことに注意してください。
教会に属していても、聖霊の宮となっていなければ、天国へ入る保証は何もないのです。

聖霊の導き

義と認められるだけで満足する必要はありません。
聖霊の導きに従うなら、私たちは義を行う者になれるのです。

ガラテヤ人への手紙
5:5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。

「信仰」と訳されていますが、その意味は「忠実」です。
私たちの忠実(エムナ)と、聖霊の助けによって、私たちは義人となれるのです。

また、聖霊の導きに従うなら、けっして肉の欲を満たすことはないと保証されています。

ガラテヤ人への手紙
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない

この導きがあるかどうかで、私たちは聖霊が宿っているかどうかを確認できるのです。

不品行、争い、怒り、妬みなどから、あなたを引き離そうとする導きはあるでしょうか。十戒じっかいを守りたいという、切なる思いはあるでしょうか。

それがあるなら、聖霊があなたのうちに宿っておられる証拠です。

たとえ守れていなくても、神の教えに服従しようとするあなたの心を見て、聖霊がとどまってくださるのです。
なんと素晴らしい恵みでしょうか。

おわりに

どのような人が聖霊を受けるのか、また、どうやって聖霊の内住を確認できるのか、おわかりいただけたでしょうか。

神の教えに従う人、そのような人に、聖霊は与えられるのです。
肉の欲から私たちを引き離す導きがあるかどうかで、聖霊が宿っているかどうかを確認できるのです。

導きがないなら、まずはあなたが神の教えに服従しているかどうか、心を探ってみてください。
そして導きを得たなら、聖霊を失わないように、この歩みを続けましょう。

ピリピ人への手紙
2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい

ランプを持っていても、油がなければ意味がありません。
人間の教えに従うのではなく、神の教えである聖書に従いましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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