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自分をイスラエルだと思えない人たちへ

はじめに

クリスチャンの中には、自分のことをイスラエルだと思う人と、思わない人がいます。

現代の教会では、思わない人のほうが増えているように感じます。

その理由は主に二つあります。
一つは、中東にイスラエルという国が建国されたこと。
もう一つは、教会をイスラエルと考えることを、置換神学(代替神学)と呼んで蔑む人たちがいることです。

確かに「イスラエルは異邦人教会に置き換わった」とする教えは、正確ではありません。

しかし、「私たちはイスラエルではない」とする教えは、もっと大変な間違いを含んでいます

このことは本当に大切な問題ですから、慎重に聖書から確認してみましょう。

結論

先に結論から見てみましょう。

ガラテヤ人への手紙
3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである

聖書は、イスラエルを教会に置き換えているのではなく、また、ユダヤ人と異邦人を分けているのでもありません。
もはや区別などない、それが聖書の教えです。

コロサイ人への手紙
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

もはや区別はないのです。
キリストのものであるなら、アブラハムの子孫と見なされます。また、契約の相続人と見なされます。

まずはこの聖書の言葉を、幼子のように受け取ることから始めましょう。

イスラエルとは何か

イスラエルとは何でしょう。
それは、神の民の代名詞です。

神の教えに従う人々を、聖書は神の民と呼びます。
神の民は、アブラハムが生まれる前から存在しました。

最初の神の民は、アダムです。
アダムは子孫たちに神の教えを聞かせ、守らせてきました。

ところが、やがて人々は神の教えを忘れ始めたのです。
それで神は洪水を起こし、神の教えを守るノアの家族だけを残しました。

創世記
7:1 主はノアに言われた、「あなたと家族とはみな箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代の人々の中で、わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである。

義が回復され、しばらくは良かったのですが、人は再び神の教えを忘れ始めました。

それで神は、神の民が絶えてしまうことのないように、アブラハムとその子孫を諸国から分け隔て、民族として隔離なさいました。
アブラハムが神の教えを守る人だったからです。

創世記
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

そのおかげで、神の民は絶えることなく、何千年ものあいだ、神の教えが引き継がれてきました。

ところが、神の教えはまたもや忘れられてしまいました。
人々が律法主義に陥り、神の教えが機能しなくなってしまったのです。

ヨハネの福音書
7:19 モーセはあなたがたに律法(注釈:神の教えである十戒じっかい)を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。

それで、しゅ民族としての隔離を終わらせ、弟子たちに正しい道を教えました。

エペソ人への手紙
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法(注釈:割礼やモーセ律法)を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

こうして民族としての隔離は終わり、異邦人であった私たちも、神の民となれるようになったのです。

ペテロの手紙 第一
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。

血筋によるのではない

血筋によって神の民となる考え方を、聖書は否定しています。

マタイの福音書
3:9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。

ヨハネの福音書
8:39 彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。

このとおり、血筋は関係ありません。
アブラハムの信仰に倣う者こそ、アブラハムの子孫とみなされるのです。

ローマ人への手紙
9:6 ──なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく
9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである──

ガラテヤ人への手紙
3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。

本当のイスラエル

ヨハネの福音書
1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。

ナタナエルをはじめ、使徒たちは皆、ユダヤ人でした。そこに、コルネリオをはじめ、テトスなどの外国人が名を連ねました。

これこそが、キリストと一つの体となった、本当のイスラエルです。

この奥義おくぎについて、聖書は次のように教えています。

エペソ人への手紙
3:6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。

繰り返しますが、置き換わったのでも、区別しているのでもありません。

コリント人への手紙 第一
12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

もはや区別はないのです。
キリストに従うなら、どんな人でも、神の民イスラエルとなれるのです。

イスラエルの国籍

イスラエルの国籍は、人が与えるものではありません。
キリストをしゅとして生きる人に、神が与えるものです。

キリストを知らなかったとき、私たちはイスラエルの国籍がない者でした。

エペソ人への手紙
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

ところが今は、どう言われているでしょうか。

エペソ人への手紙
2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

私たちはもはや異邦人ではありませんイスラエルの国籍を持っていると聖書は教えているのです。

ガラテヤ人への手紙
6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。
6:16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。

新しく造られた人を、神様はイスラエルと呼んでくださるのです。
それなのに、どうして多くのクリスチャンがこの祝福を否定するのでしょう。

おわりに

多くのクリスチャンが、「私はイスラエルではない!」と言い続けています。

目を覚ましてください。

キリストによって新生した私たちは、間違いなくイスラエルです。
アブラハムの子孫であり、その契約にあずかる人です。

どうか、もう自分をイスラエルではないなどと言わないでください。
間違った神学を捨てるときが来たのです。

聖書から確かめ、真理をつかみ取ってください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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