あなたはキリストの弟子ですか
はじめに
ずばり尋ねます。あなたはキリストの弟子でしょうか?
このことについて、教会で意図的に教えられていないように感じます。
そのため、自分がキリストの弟子かどうか、はっきりと答えられないクリスチャンが増えています。
これではいけません。
今、聖書が何と教えているか、ご一緒に確認してみましょう。
弟子とは
聖書は、信仰を受け入れた人を、弟子と呼んでいます。
そしてあるときから、弟子のことをクリスチャンと呼ぶようになったのです。
これでわかるように、弟子とは、クリスチャンのことです。
「弟子になる」というのと、「クリスチャンになる」というのは、同じ意味であることを覚えてください。
誰の弟子となるのか
私たちは、誰の弟子となるのでしょうか。
聖書は次のように教えています。
私たちの師はただひとり、キリストだけだと聖書は教えています。
けっして、私たちは牧師や神学者の弟子となるのではありません。
教師の賜物を持った人は、このことを教えなければなりません。
すなわち、どうやったらキリストの弟子となれるか、それを教えることが、教師の役割なのです。
どうやったらキリストの弟子となれるか
イエス様は「弟子となる方法」を何度も語っておられます。
これは「クリスチャンとなる方法」と同じ意味であることを思い出しながら、厳粛に読んでみてください。
つまり、何もかも捨てて従う信仰がなければ、クリスチャンにはなれないと言っているのです。
このことは、教会できちんと教えられているでしょうか。
何もかも捨てて従う信仰
天国は、私たちがすべての財産を投げ打ってでも手に入れる価値のあるものだと主は言われました。
また、私たちはすべての人から憎まれ、殺される者もあるが、髪の毛一すじさえ失われないと言われました。
何を食べようか、何を飲もうかと思い煩う必要はないと言われ、やがて迎えに来ると言われました。
これらの教えを信じるなら、私たちは何もかも捨て、安心して従うことができるはずです。
私たちが不信仰なのは、これらの教えから逃げ回っていたからではないでしょうか。
主の再臨が間近に迫った今、この不信仰から立ち返り、心を雄々しくする必要があります。
信じる者になりましょう
本当の教えをつかみ取り、弟子となる最後の機会が来ています。
私たちはもう、臆病の霊に支配される必要はありません。
命の心配をする必要のない、本当の自由が与えられているのです。
この自由を正しく行使して、主の栄光を現しましょう。
私たちが本当の弟子となることで、人々に光が差し、主は栄光をお受けになるのです。
人々に光が届かないのは、教会が「弟子となる方法」を正しく教えなくなったからではないでしょうか。人々が去って行くことを恐れて、生ぬるい教えをするようになったからではないでしょうか。
この変わり果てた教会の姿を、主はどう見ておられるでしょう。
おわりに
キリストの弟子とは、クリスチャンのことであり、弟子でないなら、クリスチャンではありません。
だからこそ、どうやったら弟子となれるのか、厳粛に耳を傾ける必要があるのです。
あなたは心から、キリストにはすべてを捨てて従う価値があると信じているでしょうか。
キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目によみがえったと信じるなら、この方が私たちをもよみがえらせてくださることを信じられるはずです。
それなら、一体何を恐れ、何を心配する必要があるでしょうか。
信じる人は臆病の霊に縛られません。もはや死から自由になっているからです。
あのダニエルのように、またステパノのように、生きるにしても、死ぬにしても、主の栄光のために自分を使い尽くしていいのです。
目を覚まし、聖書の正しい教えを受け取ることを願います。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)