見出し画像

赦しに関する本当の教え

はじめに

私たちの信じる神様は、ゆるしの神様です。

どのような罪人も、この方のもとに来れば、ゆるしていただけます。

そうして天国への道が開かれるのです。

このゆるしについて、多くの教会で次のように教えられています。

「私たちの罪は、行いに関係なくゆるされます。そのゆるしが取り消されることはありません」

一方、イエス様はこう言っています。

マタイの福音書
6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

無条件のゆるしと、条件付きのゆるし。
一体、どちらが正しいのでしょうか。

聖書の教えるゆる

イエス様は、天国がどのようなものだと教えているでしょうか。

マタイの福音書
18:23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。
18:24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
18:25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
18:26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。
18:27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった
18:28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
18:29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
18:31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。
18:32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。
18:33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
18:34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした
18:35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

イエス様の教えにぶれはありません。
兄弟をゆるさないなら、あなた方もゆるされない。これが聖書の教えです。

それなのに、教会は、いつしか耳障りの良い教理で、聖書を上書きするようになってしまったのです。

これではいけません。

教会が聖書を否定するようになったら、人類はどのようにして真理を取り戻すのでしょうか。
塩が塩気をなくしたら、もうおしまいです。

「いろんな聖書解釈があっていい」という言葉は、寛容に聞こえるかもしれません。
けれど、それこそが真理を破壊する言葉なのです。そうやって私たちは、ついにしゅを否定するところまで来てしまったのです。

ペテロの手紙 第二
2:1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。

もう、こんなことを続けてはいけません。
しゅの教えを回復しましょう。

ゆるさない者は、ゆるされない
それが聖書の教えです。

なぜゆるす必要があるのか

なぜ、ゆるさない人は、ゆるされないのでしょうか。
私たちが兄弟をゆるさなくても、しゅが無条件に私たちをゆるしてくださるわけにはいかないのでしょうか。

それはこう言っているのと同じなのです。

「私たちはサタンに支配されたままでいいです。ただゆるしてくれるだけでいいです」

神様は、私たちをそのような状態でいさせたいとは思っていません。

だからこそ、ゆるしなさいと言われるのです。
そうして、私たちがサタンの束縛から自由になることを願っておられるのです。

ゆるしと悔い改め

ゆるしと悔い改めは、表裏一体です。
悔い改めのないところにゆるしはなく、ゆるしのないところに悔い改めはありません。

ゆるさないことは、すなわち相手を憎んでいることにほかなりません。
それは殺人の罪であり、永遠の命を失うことだと聖書は教えています。

ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。

悔い改めなしのゆるしは、悪魔のわざです。それは罪の許容です。罪を犯してもよしとすることであり、人を滅びに向かわせることです。

もし私たちが悔い改めなしにゆるされるならば、私たちは罪悪感なしに罪を犯すようになってしまうでしょう。

実際、間違った教えのせいで、そうなっている人がいるのではありませんか?

「悔い改めよ」
このシンプルな教えを、私たちはもう一度回復し、べ伝えなければなりません。

ルカの福音書
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

悔い改めをべ伝えるには、まず私たちがゆるす者とならなければいけません。

ゆるしのコツ

どうしたらゆるせるでしょうか。

聖書から、三つのコツを引き出すことができます。

一つ目は、「私も同じ罪人だ」と考えることです。

聖書は、すべての人が罪人なのだと教えます。
そのとおり、私たちはひどい罪人でした。それを思い出すなら、相手のこともゆるせるはずです。
けっして、自分がしゅゆるされたことを忘れてはいけません。

二つ目は、「同じ立場だったら、私もそうなっていた」と考えることです。

もしあなたが、相手と同じ生い立ち、同じ教育、同じ環境に育っていたらどうでしょう。
「それでも自分はそんなことをしなかった」と言える人がいるでしょうか。
いいえ。同じ立場だったら、私たちは必ず同じ失敗をするでしょう。
このことを理解するなら、相手をゆるせるはずです。

三つ目は、「それ以上に私はひどいのだ」と考えることです。

人から誤解されたり、ありもしないうわさを流されたりすると、私たちは憤ります。
けれども、神様の目から見た私たちは、そのうわさより何倍もひどいのではありませんか?
それを認めるなら、ゆるせるはずです。「私はもっとひどい者です」そう言って、へりくだることができるはずです。

おわりに

人をゆるさないなら、私たちもゆるされることはありません。

教会の教えが聖書と違うなら、聖書を信じなければなりません

しゅの言葉を軽んじる人は、天国には一人もいないことでしょう。

かつてバプテスマのヨハネがしたように、現代の私たちは、罪のゆるしを得させる悔い改めを、もう一度べ伝える必要があります。

マタイの福音書
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野でおしえを宣べて言った、
3:2 「悔い改めよ、天国は近づいた」。

これはエリヤの働きと呼ばれるものです(マタイ11:14、マルコ9:12)。
この働きがなければ、しゅは来られません(マラキ4:5)。

私自身は、どの団体、教派にも所属しておりません。また、何者でもありません。
取るに足りない者が、こうしてお伝えしているのです。

あなたも、この働きに参加できます。
このことを誰かに伝えるだけでも、しゅのお役に立てるのです。
もちろん、文章をコピーして使っていただいても構いません。

偽りの神学を捨てて、聖書の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)