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あなたを救う医者

はじめに

イエス・キリストは、ご自身のことを医者にたとえられました。

マルコの福音書
2:17 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

これはなんと素晴らしい言葉でしょうか。
最高の医者が、私たちの主治医となるべく、来てくれたのです。

でも、ちょっと待ってください。
この医者の治療を、あなたは本当に受けているでしょうか。

何から救われるのか

「信じる者は救われる」そう聖書は教えますが、一体、何から救われるのでしょうか。

答えは、「罪から」です。

マタイの福音書
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

このために、しゅは十字架で死なれたのです。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会(別訳より)

この治療を、あなたは受けているでしょうか。

次の聖句は、教会で繰り返し語られる聖句です。

ローマ人への手紙
3:28 ──人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

この聖句を曲解するなら、治療は受けられません。
もしも、律法を守らない人でも救われると思うなら、その人はまだキリストを知らないのだと聖書は教えます。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです
3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

罪とは「律法に違反すること」です。
律法に背く人は、キリストという医者を、まだ知らないのです。

キリストは、私たちの罪、すなわち律法違反を取り除くために現れました。
望む人は誰でも、この治療を受けられるのです。

救いの確信を強調する人々

「イエス・キリストを救い主として受け入れた瞬間、天国行きが確定する」そのように教える人々は、ことさらに救いの確信を強調します。

彼らの最後を、イエス様は次のように語っています。

ルカの福音書
13:26 そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、
13:27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。

この人たちは、「善人が天国へ行って、悪人が地獄へ行く」という聖書の教えを、信じていないのです。

ヨハネの福音書
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

聖書は一貫して、行いに応じて報いがあると教えます。
救いの確信があっても、罪のやまいが癒やされていないなら、何にもならないのです。

何が間違っているのか

根本的な間違いは、救いの意味を取り違えていることにあります。

多くの教会は、救いを、「刑罰からの救い」だと教えます。罪を犯していても、刑罰を受けないようにしてくれる、それが救いだというのです。

しかし聖書の教える救いは、「罪からの救い」です。罪を犯すばかりだった私たちが、善を行う者に変えられることによって、刑罰を免れるという教えです。

ローマ人への手紙
2:6 神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる
2:7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、
2:8 他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと激しい憤りとが加えられる。

この真理を回復するなら、本当に聖書が読みやすくなります。
党派心を捨てて、ただ聖書の言葉に「はい」と答える者になりましょう。

救いのメカニズム

しゅは、すべての人のあがなとして、ご自身をささげられました。
こうして、神との和解が成立したのです。

それで、すべての人は神に近づくことができ、この方を主治医として受け入れることができるのです。

ただし、この医者から治療を受けるには、従順が必要です。
罪から離れたいと願わない人を、しゅはむりやり治療されないからです。

ヘブル人への手紙
5:8 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、
5:9 そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、

罪とは「律法に違反すること」ですから、罪の治療を受けるには、律法への服従が先決です。

ローマ人への手紙
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して
6:18 罪から解放され、義の僕となった。

律法によって罪を知り、その罪がキリストを十字架につけたことを悟るなら、その人はもう罪を犯したくないと悔い改め、律法に服従し、キリストに治療を願い出るようになります。
こうして私たちは、罪から解放され、義のしもべとなるのです。

これが罪からの救いです。
けっして、律法の行いによるのではありません。信仰によるのです。
けれど注意してください。律法に服従しない人に、その救いが与えられないこともまた、事実なのです。

以上が、聖書が「救われた」と表現する内容となります。

続・救いのメカニズム

罪からの救いは、一瞬にしてなされます。
ところがこの状態は、維持されなければ失われてしまうと聖書は教えます。

ペテロの手紙 第二
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。

「救われた」私たちは、次に「救われる」ことに目を向ける必要があるのです。

マタイの福音書
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる

「救われた」人が、「救われる」道を歩み始める。
このことを、聖書は白い衣にたとえて教えてくれます。

ヨハネの黙示録
3:4 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。

この白い衣とは、キリストの義であり、聖徒たちの正しい行いです。
正しく治療を受けた人には、これが必ず与えられます。
これこそ、私たちが婚宴に着ていく、純白のウエディングドレスなのです。

ところが、「救われた」あとも、私たちの体は依然、罪の性質を宿しています。
そのせいで、ときに罪を犯し、純白だった義の衣をけがしてしまうことがあります。
するとそのままでは、婚宴に参加できません。

しかし安心してください。
このウエディングドレスを純白に戻す方法が、一つだけあります。
それは、罪を悔い改め、その罪をキリストに負ってもらうことです。

ヨハネの黙示録
7:14 ──彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである

この洗濯を、私たちは最後まで続ける必要があるのです。

ヨハネの黙示録
22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。

悔い改めは、一度きりのものではありません
私たちは日々、衣を白くしてもらう必要があるのです。

憎しみ、妬み、情欲、金銭への信頼──
世の人にとっては当たり前のことであっても、それは罪であると聖書は教えます。

それらの罪が、新たなくぎとなってしゅの体に打ち込まれることを思い、悔い改めるのです。
しゅは血を流しながらも、私たちをゆるし、再び衣を白くしてくださるでしょう。

その恐ろしい行為を思うとき、私たちは罪が嫌いになり、だんだんと罪から離れていきます。
「罪を犯さない者」としての本質が目を覚まし、新しい霊が、自己を完全に支配していくのです。

これこそが、医者を信頼する人、すなわちキリストを信じる者です。
このような人は、裁かれません。もう、裁かれる理由がないからです。

ヨハネの福音書
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

この治療に、私たちの功績は何一つありません。
私たちのために死んでくださったしゅの愛が、そうさせるのです。
この医者は、なんとすごい医者でしょうか。

おわりに

律法の行いによって救われるのでしょうか。
いいえ

では、律法を行わない人も救われるのでしょうか。
いいえ

現代の教会は、「行いに無関係の救い」という教理を打ち立てています。
その教理は、聖書と似ているようで、じつはまったく異なる教理です。

聖書は、信仰によって私たちの罪のやまいは癒やされ、律法は確立されると教えています。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

もし教会で、次のような教えが隠されているなら、そこから脱出する必要があります。

マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

ヨハネの手紙 第一
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。

ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。

これらの教えを隠す教会は、「罪からの救い」を信じていないのです。
聖書の教えとは異なる「救いの確信」で、人々を集めているだけなのです。

エペソ人への手紙
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい──
5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである──
5:10 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。

イエス様の時代、人々は律法学者やパリサイ人の教えにとらわれ、大工や漁師の言葉に耳を傾けませんでした。
同じ失敗を繰り返してはいけません。

滅びに至る広い門を離れ、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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