見出し画像

人は律法を全うできるのか

はじめに

ある人は、
「人は律法を守ることはできないから、ゆるしてもらうしかない」
と教えます。

しかし、こう教える人もいます。
「人の力で律法を守ることはできないが、神の力で守ることができる」

一体、どちらが正しいのでしょうか。

人は律法を全うできる

聖書は、私たちが律法を全うできることを、何度も教えています。

御霊みたまによって歩くなら、私たちは律法を全うできます。

ローマ人への手紙
8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

また、人を愛することで、律法を全うできます。

ローマ人への手紙
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。

また、信仰によって、律法を全うできます。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

では、どの律法を全うできるのか

私たちが全うできる律法は、どの律法でしょうか。モーセ律法でしょうか。

ローマ人への手紙
2:26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
2:27 かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。

無割礼の者でも、律法を全うできるとあります。ゆえにモーセ律法ではありません。

では、その律法とは何でしょう。
私たちはどの律法を、愛や信仰によって全うできるのでしょうか。

ローマ人への手紙
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

十戒じっかいです。
これはキリストの律法と同じものです。
キリストは、十戒じっかいの正しい守り方を人々に教えたのです。

マタイの福音書
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである

マルコの福音書
2:27 また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。

これがキリストの律法です。それは神の原則そのものです。

このように、モーセ律法と、神の律法は、違うものです。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである

聖書は、愛によって、神の律法である十戒じっかいを全うできると教えているのです。

私たちは罪に勝利できる

キリストの十字架によって、私たちは罪に勝利できると教えられています。

ペテロの手紙 第一
2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義に生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会(別訳より)

罪とは何でしょう。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

聖書は、十字架の力によって、私たちが罪に勝利し、律法を全うできることを保証しているのです。

奴隷のままではない

ヨハネの福音書
8:34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である

私たちは奴隷のままだと教えられていますか?
それとも、自由を得ると教えられていますか?

ヨハネの福音書
8:36 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである

自由を得ると教えられています。

聖書は、間違いなく罪からの解放を教えています。
この恵みを、私たちは絶対に受け取らなくてはなりません。
なぜなら、この恵みを受け取った人に、永遠の命が約束されているからです。

ローマ人への手紙
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。

罪との戦いは続く

罪から解放されても、罪との戦いが終わるわけではありません。

新しい体をいただくまでは、私たちの体は罪の性質を宿しているからです。

ローマ人への手紙
7:25 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

そのため、過失を犯すこともあるでしょう。
だからといって、落胆することはないのです。

ヨハネの手紙 第一
2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる
2:2 彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。

全世界の罪は、すでにあがなわれているのです。

すると、全世界の人が天国へ入るのでしょうか
聖書はそうは言っていませんね。

マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである

あがなわれた人が全員、天国へ入るのではありません。
あがなわれたことを信じ、これに感謝して、義に生きるようになった人が、天国へ入るのです。

おわりに

「私たちはゆるしてもらうしかない」
ゆるされた人が天国へ入る」
これは聖書の教えではありません。

新しく生まれなければ、誰も神の国を見ることはできないのです。

新しく生まれた人の特徴は、罪を犯さないことです。

ヨハネの手紙 第一
5:18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。

こうなっていないとしたら、あなたの中に十戒じっかいが納められておらず、神の宮となっていないからです。

これは人の努力によるものではなく、受け取るものです。

「律法の要求を満たしたい」と心から願わない人に、助けは与えられません。
「律法を守れるはずがない」という不信仰な人にも、癒やしは与えられません。

間違った教えに従っていては、けっして正しいゴールにたどり着くことはないのです。

人の教えを捨て、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)