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よちよちクリスチャンの聖書ノート

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幼子のようなクリスチャンの私が、幼子のような目で聖書から発見した真理をお伝えします。
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#安息日

聖書は本当は何と言っている?

聖書、それは一体誰のものでしょう。 聖書自身が次のように教えています。 世の中にはたくさんの聖書解釈があります。そして、それらは必ずしも一致するものではありません。そんな教派の一つを、自分の信じるものとして採用してしまってもいいものでしょうか。イエス様の時代、パリサイ派とサドカイ派、どちらが正しかったでしょう。 残念ながら、どちらも間違っていました。 人々が真理に立つには、主流派の神学から脱出する以外になかったのです。 正しいのは、神の言葉、聖書だけです。つまり、私たち

クリスチャンは安息日を守るべきか

はじめにあなたがクリスチャンであるなら、神様が安息日について命じられているのを読んだことがあると思います。 その安息日は、どこへ行ってしまったのでしょうか。 これについては、教会のあいだでも様々な混乱が見られます。 ある教派の人は、安息日は廃されたと言い、ある教派の人は、日曜礼拝に変わったと言います。また、ユダヤ人だけに命じられたと教える人もいます。 聖書はどう教えているでしょうか。 これは特定の教派をお勧めするものではありませんし、何かを強制するものでもありません。

安息日とは何なのか

はじめに多くのクリスチャンが、安息日について正しく学ぶ機会を失っています。 そのため、安息日に対する偏見や、間違った理解が広まっています。 一度、聖書からきちんと確認してみませんか? 安息日を一言でいえば「神様と過ごす日」です。 偏見をなくすために、今回は「安息日」と呼ばず、「神様と過ごす日」と呼びながら、ご一緒に確認していきましょう。 「神様と過ごす日」はいつできたか多くの人が、「神様と過ごす日」はモーセ律法にて制定された、と思い込んでいます。 これは違います。

安息日を守らせまいとする力

はじめに安息日が十戒に含まれていることを知らないクリスチャンは、ほとんどいないと思います。 にもかかわらず、安息日を守らなかったり、守ろうとする人を攻撃する人が多いのはなぜでしょう。 「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」などに対して、攻撃する人はいません。 それなのになぜ、「安息日」に関してだけは、目くじらを立てて怒りだすのでしょうか。 これには理由があります。 ご一緒に確認してみましょう。 安息日への攻撃安息日を攻撃する人のほとんどが、次の聖書箇所を持ち出すことで

不法とは

はじめに「不法」と聞くと、私たち日本人は犯罪を連想します。 しかし、聖書のいう「不法」は、それとは少し違います。 聖書のいう「不法」とは何でしょう。 これを正しく知ることで、聖書が格段に読みやすくなります。 ご一緒に確認してみましょう。 罪と不法の関係「不法」とは、ギリシャ語で「アノミア」。 直訳すると、「法に違反すること」です。 似た言葉に、「罪(ハマルティア)」という言葉があります。 「罪(ハマルティア)」と「不法(アノミア)」は、どう違うのでしょうか。

十戒について、イエス様はどう言っているか

はじめに現代、多くの教会で、「十戒は廃され、『互いに愛し合いなさい』という新しい戒めだけが与えられた」と教えられています。 これは本当でしょうか。 イエス様は、十戒を守るようにとは教えなかったのでしょうか。 今、聞いてきたことを一度、脇に置いて、聖書を確認してみましょう。 永遠の命を受けるには「永遠の命を受けるために何をすべきか」という質問に対して、イエス様は次のように答えられました。 ここに書かれた六つの戒めを守りなさいと言うことでしょうか。 だとしたら、マタイ

バビロンから出ておいで

はじめに聖書には「バビロンから出ておいで」というメッセージがあります。 「バビロンから出て、私の所へおいで」と主が招いておられるのです。 このことは、黙示録でも繰り返されています。 これは何を意味しているのでしょうか。 ここに、絶対に知っておかなければならない事実があります。 なぜならこれは、私たちにとって、命に関わる呼びかけだからです。 黙示録のバビロン黙示録に出てくる大淫婦バビロンは、多くの神学者が認めるとおり、背教した教会のことです。 「背教した教会から出て

私が十戒を守る理由

はじめにかつての私は、モーセ律法はおろか、十戒さえ守っていませんでした。 いや、なんとなく守ってはいたのかもしれません。 けれど、熱心に守ったりはしていませんでした。 安息日については、完全に無視です。 理由はありません。周りの人に倣っていただけです。 そんな私が、今は十戒を守っています。 一体、なぜでしょうか。 一個人の意見に過ぎませんが、誰かの参考になればと思い、お話しいたします。 きっかけ私が十戒を意識するようになったのは、聞いてきた教え以外にも、たくさんの

教会に入ってきた異教の儀式

はじめに皆さんは、都合の悪い事実は隠すほうですか? それとも、表に出して悔い改めるほうですか? 言うまでもなく、クリスチャンには後者が求められています。 しかし、私たちは本当にそうしているでしょうか。 選ばなくてはならない聖書は私たちに「ほかの神々を除き去って主に仕えよ、そうしないなら、ほかの神々に仕えよ」と教えています。 あなたはどちらを選びますか? もちろん、こう答えるでしょう。 「ほかの神々を除き去って、主に仕えます!」 ほかの神々サタンは、神の民のあいだに

来たるべきものの影

はじめに聖書は、ある律法のことを「来たるべきものの影」と呼んでいます。 とはいえ、殺すな、姦淫するな、などの教えを、「来たるべきものの影」と考えるクリスチャンはいないと思います。 では一体何が、「来たるべきものの影」なのでしょうか。 このことについて、私たちは正確に理解する必要があります。 来たるべきものの影聖書は、どの律法を「影」と呼んでいるのでしょうか。 結論から言うと、モーセ律法の儀式を、キリストの影と呼んでいるのです。 このとおり、モーセ律法のささげ物は影

これが神への恐れです

はじめに聖書は、「神は愛である」と教えます。 それと同時に、「神を恐れよ」とも書かれています。 この「恐れ」について、正しく学んだことはあるでしょうか。 今、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 神への恐れとはヘブライ語において「恐れる」と「敬う」は、同じ言葉です。 神を恐れ、敬うことは、律法を守ることと大いに関係があります。 アブラハムは、ゲラルの地を訪れたとき、その地の人々が殺人や姦淫を行うものと思って、「神を恐れることがない」と言いました。 このように、十

私たちのすべき戦い

はじめに聖書は、私たちに戦うようにと何度も教えています。 さて、私たちは一体、どんな戦いをすべきなのでしょうか。 私たちのすべき戦い私たちクリスチャンのすべき戦いは、支配と権威に対する戦いだと聖書は教えます。 どういうことでしょうか。 ある町に、二人の農夫がいたとします。 片方の農夫は、毎日、脇目も振らずに働いて、大きな収穫を得ました。 その収穫で、さらに農地を増やして、忙しくはなりましたが、蓄えはもっと増えました。 もう片方の農夫は、神様を最優先にし、安息日には

聖別とは

はじめにあなたには神への畏れがあるでしょうか。 それなら、神の聖別について、明確に知っておく必要があります。 聖別とは何でしょうか。 とても大切なことですので、ご一緒に聖書から確認しておきましょう。 聖別とは、区別すること聖別を簡単に説明すると、それは俗なるものから聖なるものを区別することです。 聖書には、人や物など、聖別されたものがたくさん出て来ます。 聖別されたものは、神様の特別な目的のために確保され、俗なるものから完全に区別されます。 大切なのは、聖別された

私が日曜礼拝をやめた理由

はじめにかつて私は日曜礼拝を行っていましたが、今は行っていません。 代わりに、日々の礼拝と、安息日を守っています。 こう言うと、多くのクリスチャンが違和感を持つことはわかります。 私もそうでした。 それでも、私は日曜礼拝をやめました。ちゃんとした理由があってのことです。 その理由について、皆さんも知っておいて損はないと思います。 安息日を守る人への以前の印象前々から、安息日を守る人たちがいることは知っていました。 私はそれを、一般的でない、奇妙な習慣のように思っていまし