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はじめに私は三位一体の神を信じています。 それは、父なる神、子なる神、聖霊が、一つの神であるということです。 三つが一つであるということを、人の頭では理解することができません。理解できると思うなら、それは神の存在を、人の脳に入る程度に矮小化しているだけに過ぎません。 さて、ここで質問です。 人として来られる前のイエス様は、一体どんな方で、何をしておられたのでしょうか。 これを正しく知ることで、私たちの目は大きく開かれます。 人として来られる前のイエス様聖書にはこう
はじめにどんな人であっても、恵みにより、信仰によって救われます。 これは聖書を見れば明らかであり、否定の余地はありません。 「では、従わない人も救われるの?」そんな疑問を持つ方もおられるかもしれません。 これはとても大切なことですから、聖書からきちんと確認してみましょう。 アブラハムの信仰信仰と一概に言っても、様々な信仰があります。 世の宗教を見れば、たくさんの間違った信仰が存在することがわかります。 聖書は、アブラハムの信仰に倣う人に、救いが保証されると教えていま
はじめに私たちクリスチャンは、律法を守ることによって救われるのではありません。 とはいえ、律法を守らない人が救われることもありません。 このことについて、一度きちんと聖書から確かめてみましょう。 信仰とは何か救いには信仰が必要であることを、皆さんご存じだと思います。 では、その信仰とは何でしょうか。 信仰とは、望んでいる事柄、及び、見ていないものを確信することです。 では、望んでいる事柄とは何でしょう。 パウロは次のように書いています。 御霊の助けにより、信仰によ
はじめに聖書に書かれたことはすべて真実です。 けれど、すべてが文字どおりというわけではありません。 なぜなら聖書には、詩的表現や、比喩、ことわざ、黙示が満ちているからです。 このことに注意して、いくつかの聖句を確認してみましょう。 詩的表現神様は次のように言われました。 これを文字どおりに解釈してしまうなら、雹や雪は、大気中の水分が固まってできるのではなく、あらかじめ倉に蓄えられたのを神様が取り出していることになってしまいます。 そのように考えていいのでしょうか。
はじめにこれは、かつて私を捕らえていた罠の話です。 以前の私は「福音の三要素」なるものを知っているだけで、 自分の天国行きは確定しているのだと思っていました。 そればかりか、その確信がない人を、不信仰だとさえ思っていました。 ところが、それは大間違いだったのです。 聖書の教え「自分の天国行きは確定している」そんな考え方を、聖書は明確に否定しています。 以前の私は、自分の救いの達成に努める人々を、完全に見下していました。 「神の恵みも知らない人々」と決めつけ、裁いてい
はじめに以前の私は、クリスチャンでありながら、永遠の命について間違った教えを信じていました。 同じように、多くの方が、永遠の命について間違った教えを信じています。 どうか今、聖書から確かめて、本当の命を手にしてください。 イエス様の答え永遠の命を、未来に与えられる不老不死のように考えているクリスチャンが大勢います。 そうではありません。 永遠の命とは、私たちの生き方が、天の住人の生き方に変わることです。 聞いて、信じる者は、もう永遠の命を生き始めているというのです
はじめに昨今、多くの教会で「一致」が叫ばれており、それはまるで美しい響きのように歓迎されています。 けれど、私たちはこの「一致」に気をつけなければなりません。 イエス様の時代を思い出してください。 対立していたはずのパリサイ派とサドカイ派が一致して、どうなりましたか? 真理を攻撃したのです。 すべての一致が正しいわけではありません。 聖書の教える一致とは何か、慎重に確認してみましょう。 イエス様が来た理由イエス様は何のために来られたのでしょうか。 主ご自身、次のよ
はじめに「ただイエス・キリストを信じて、口で告白するだけで救われる」 多くの教会でそう教えられています。 これは本当でしょうか。 本当だとしたら、聖書はクリスチャンに対して、一体何をこんなにも警告しているのでしょうか。 ここに、一つの落とし穴があります。 多くの人が、この落とし穴に落ち込もうとしています。 穴に落ち込まないためには、聖書から真理を回復するしかありません。 ご一緒に確かめてみましょう。 口で告白すること確かに、聖書には次のように書かれています。 「主
はじめに聖書には「バビロンから出ておいで」というメッセージがあります。 「バビロンから出て、私の所へおいで」と主が招いておられるのです。 このことは、黙示録でも繰り返されています。 これは何を意味しているのでしょうか。 ここに、絶対に知っておかなければならない事実があります。 なぜならこれは、私たちにとって、命に関わる呼びかけだからです。 黙示録のバビロン黙示録に出てくる大淫婦バビロンは、多くの神学者が認めるとおり、背教した教会のことです。 「背教した教会から出て
はじめに聖書は、「神は愛である」と教えます。 それと同時に、「神を恐れよ」とも書かれています。 この「恐れ」について、正しく学んだことはあるでしょうか。 今、ご一緒に聖書から確認してみましょう。 神への恐れとはヘブライ語において「恐れる」と「敬う」は、同じ言葉です。 神を恐れ、敬うことは、律法を守ることと大いに関係があります。 アブラハムは、ゲラルの地を訪れたとき、その地の人々が殺人や姦淫を行うものと思って、「神を恐れることがない」と言いました。 このように、十
はじめに人は、どんな状態にあることが、理想的といえるでしょうか。 世の人々は、心身ともに健康で、喜びに満ち、義に足りており、迫害やいじめのない状態を、理想的と呼ぶのではないでしょうか。 しかし聖書は、その反対にある状態を「幸いだ」と教えます。 幸いな人これらが、聖書の教える幸いな人です。 その理由は、次のように書かれています。 慰められるから、地を受け継ぐから、飽き足りるから、憐れみを受けるから、神を見るから、神の子と呼ばれるから── これらはすべて、天国に入るこ
はじめに聖書は、私たちに試練があることをあらかじめ告げています。 その試練に、あなたは備えているでしょうか。 そもそも試練とは何か試練(ペイラゾー、ペイラスモス)と訳された言葉は、日本語にない言葉です。 というのも、これは「試練」と「誘惑」と「テスト」を合わせたような言葉だからです。 これは「試練」であると同時に、「誘惑」や「テスト」をも指しています。 イエス・キリストは、傷のない子羊としての資格を証明する必要があったのです。 このように、聖書のいう試練とは、誘惑で