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命とともに与えられたもの

菊池真理子さんの神様の家に生まれましたを読んだ。
コロナ禍のなかカルトに戻っている人がいるという噂があった。私がファンだった、樹村みのりのヤマギシ会について警告した本が復刻されていたりした。その流れの作品だなって、この漫画についての評判を聞いていた。
そして、あの事件が起こってしまった。

信仰とはなんだろう。かつてあった、日常に殺戮がお互いに繰り返される中で何かにすがっていないと生きていけない世の中では必要なんだと思う。 
最近、鎌倉殿の13人の流れで色々と鎌倉時代の仏教について好奇心にかられて色々と読んだが、なくては耐えられない人が多くいたように感じるし,それに応えようとした人もいた。

しかし、そうでない世の中になると宗教の力がさほど必要とされなくなった。宗教には副作用がある。それは人を支配する力だ。そのためには人は命も捨てるし、財産も手放し、子供も捧げるのである。それを利用しようとする人がいる。
その支配を和らげたのは、科学や医学の進歩もあり、法律の整備もあり、何より平和な世界と貧困をなくそうとする人の努力だったと思う。

「神様の家に生まれました」がいいなと思うのは古くからの既成宗教も問題があることもきちっと示してることだと思う。
宗教は支配の手段にいとも簡単になってしまうのである。誰かが自分の思い通りに誰かを支配するための。親子であっても人は別々で決して犠牲になってはいけない。人には意思と立場があるのである。

昔、私はプロテスタント系の人が多い学校のコーラス部にいた。そこの人たちは布教を皆にほぼしてこなかった。それはそこに強制もあったのだと今は思う。煩わしかったのだと思う。それを一緒に受け入れてくれる人はめったにいない。家族にしたいような人でなければならなかったのだろう。

めずらしく新しく在学中に信徒になった先輩はしきりに勧誘してきた。
しかし、私が興味がないのを知るとかなりの暴言を吐いたと思う。
こんなに美人で優しい方がこんな事を言うのだとショックだった。間違っていなかった。私は嫌われ者だったと思う。あの頃は不貞腐れて、人に対して意地悪だったかもしれない。

そして、私が支配的な何かにいいようにされていて悩んでいるのは割りと分かっていたのだと思う。不安は彼女に見透かされてもいたのだろう。でも、私はあのとき、入信しなかったことは後悔していない。暴言を吐かれるぐらいの見下した同情だったんだと思う。

信仰とは、もしあるとしても個人の中の追求で、それは誰かと縛り合うものではないなと思う。いくら寂しくとも。

そんな事を考えながら、宗教による支配で意思を奪われた2世の物語を読んだ。苦しくても自分を大切にしたいという思いを感じた。




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