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宇治十帖を読み直す

 かねてから、読みたかった角田光代の新訳「源氏物語」下巻を手に入れ、宇治十帖を読んだ。
学生時代の論文を書いたので、元本を古本屋で手に入れ、持ちつづけている。ちなみに、論文のテーマは宇治十帖は紫式部が作者かどうかだった。

 前半の源氏の死後の話が拙いのと、急にリアルな男女の話になったから、諸説あるのだ。今は紫式部作だと確信してる。
読者の読みたい話でなくて、彼女が書きたかった話だったんだと思うから。雨夜の品定めで語られていた彼女と等身大の中級貴族の女性の実感のこもった話が、ついに宇治十帖で展開されている。

 そして、新しい訳で読み直してみる。
色々な人の翻訳、田辺聖子や円地文子版を読みながら、ぼんやりと意識していたはずの、この十巻の性と愛の容赦なく残酷な描写に驚く。

 宇治十帖の主人公、薫大将が、サディスティックな性への欲望と理性に引き裂かされた、とんでもなくこじれた人であるのがわかる。
ライバルの匂宮も刹那的な性愛の刺激に溺れる困った人と改めて確認した。

 しかし、宮廷で働いていた紫式部には、見知った人たちでもあるのだ。
宮廷という富と権力が集中して場所の社会の特権を持った人の退廃のすがたである。
でも、古代の彼らの姿は、現代でもあるかもしれない恋愛の姿でもあるなって感じた。
今回の訳は、それを、現代小説として表現してみようという意志を感じた。それゆえにあいまいさが廃されていて、強さとスピード感がある。

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 宇治に住む、権力闘争に負け、妻を亡くした落ちぶれた皇族八宮には大君と中君という二人の美しい娘があった。
主人公源氏の妻であった皇女の不倫の子、薫はむなしさを仏教に求め八宮に出会う。
そこで、娘を世に出したいという宮の妄執にとらわれ、大君と恋愛する。しかし、業にまみれた現世での生活をおそれた大君はそれを拒みつづける。
それゆえ、薫に色好みの匂宮に中君を手引きされ、男に振り回される中君の不幸に悶死する。

 そこに現れたのは、母が妻の姪であっても侍女ゆえに、父、八宮に存在をこばまれ、富にめぐまれた中流貴族の義父にも無視されていた姉妹の義理の妹、浮舟だ。
義父の実子でないと知った婚約者に実子に乗り換えられ、匂宮の妻となった姉である中君のところに逃げ込むも、美貌に目をつけた匂宮に襲われかけ、そして、大君の形代、身代わりとして、薫の愛人として宇治に囲われる。

その後、ついに匂宮に押し入られて、体を許し、二人の間で悩み、宇治川に身を投げる。
二人の男に求婚されて死ぬ話はよく昔話にあるけれど、それらの物語は素朴で清冽だ。
その話を貴族社会でリアルに描いたのが、この話の怖いとこだなって思う。

 なにしろ、身を投げた後も話が続く。
まず、彼女を失った二人の男が宮廷で女漁りをする話「蜻蛉」になる。
昔、読んだときは、入水の悲劇のあとの「蜻蛉」の巻の意味が分からなかった。
彼らの人生において、彼女の喪失は宮廷の退廃にまみれ意味を問わないようにされていくのが分かる。

 薫があこがれていた未婚の皇女、女一宮が「涼し」という透けた着物で、侍女たちと氷と戯れるエロチックな夏のシーンが印象に残っている。
そのあと、妹である妻の女二宮に同じかっこをさせる。
形代という作中の言葉が生きてくる。手に入れられないものを支配できるものに変える。
人形愛ということばがあるけど、そういった感じだ。
ここで源氏本編で繰り返されてたテーマが、得られない愛であることに気づく。美しい物語も現実を落とし込むと怖い。

 また、皇族である父を亡くした、かつての結婚候補が、宮中の侍女になって、薫だけでなく男たちを誘惑するところもある。
まさしく、八宮が恐れていたことは、こういうことだったかと思い知った。性的な対象としてだけ男に見られ、権力にふりまわされる娘たちの姿だ。

 そして、話はガラッと変わって、驚くべきことに、浮舟は死にきれず、宇治川沿いをさまよっていたことが明かされる。
そして、比叡山下の小野の里で、彼女を助けた尼の亡き娘の婿に迫られて、出家してしまう話が続くのである。

 出家して、彼女は初めて、自分が死を願った意味を知る。
これは子供の時から世の理不尽を知り、男に振り回され、母といううものにもなれなかった彼女が世を棄てて、自分の気持ちに初めて気づく話なんじゃなって思った。

 浮舟は、保護者的なふるまいで親切そうに見える、女を見下した薫でなく、性愛にすぐれていた匂宮に気持ちが傾いていたことに気づくのである。そのときだけは、二人は対等な関係であったからだ。
でも、二日間も愛し合う刹那な関係をもとめる彼が求めるのは、社会からの逃避の中での快楽だ。
いわゆる好色ということなんだろうけど、彼らは一瞬の刺激の中毒者だ。
その愛は、続くものではない。

 そして、父性を得て支配者になった薫には、継続する愛がある。
だが、それは気持ちを腐らせる愛だ。
どちらも辛いことでしかないと感じた彼女は、死を願った。

 物語の最後、薫に発見された浮舟は再会を拒む。
その時、作者は、薫が、身分が低く教養のない身持ちの悪い女だ、新しい男に囲われているかなんかだろうと感じたって終わっている。
どうしようもない男なんである。
自分と同化しない女を憎む無意識を持ってしまった、彼の不幸なんである。

 浮舟も、はたして、また、周りの貴族社会にに囲まれて出家を貫けるのだろうか。
それとも、そこを棄てて、尼として荒れ野をさまよい野垂れ死にするのだろうか。
誰も救われない形で物語が終わる。 

 私がこの物語に心惹かれるのは、恋愛のある世界の限界が描かれているからだろうと思う。古代のような素直な性愛に振り回されたものではない。
社会の進歩と豊かさは都市を生み、私たちがその人間の群れの中でいる限り、いろいろな立場が生まれ、分かり合えない。

 源氏物語は、男女の中を世の中と表現する、男性性と女性性がせめぎあえて、身近に暴力に巻き込まれない平和な中で描かれている。
もちろん、一歩踏み出すと古代の野蛮がはびこっている世界なのだけど。

 そこで、その中で、物分かりよくなれないほど、つまはじきされ孤立した浮舟が、あいまいに生き続けることで、純情を貫く。
そこにロマンを感じるのだ。

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 作家の最晩年の作品は後の世を指し示す作品が多いと思う。
このあと、ないがしろにされた皇族たちの逆襲が始まる院政期が始まる。
そして、女系相続のなごりがあった貴族社会が形骸化されて、暴力に支配される男系相続が主な武士の時代が始まる。
マッチョな時代になって、女は、保護されないと生きていけない。
自分というものを自覚する恋愛自体がナンセンスになっていく。
まあ、いつの時代、どんな場所でも、恋愛は反社会的なもんだけど。
日本では、それ以降の恋愛の場は、個人が出会う仮想の場、遊郭に移る。
遊女が源氏物語から「揚巻」やら「夕霧」やらを名乗っているのは意味があったんだってことに気づくとなんかな切ない。

 





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