生活と歌
是がまあ ついの栖か 雪五尺
小林一茶
江戸時代の後半になると社会が豊かになった。特に江戸への人口と富の集積が大きいように思う。その中で印刷の普及が進んだ。どんな家でも浮世絵の美人画が一枚だけでも飾られたりする。それで絵描きはパトロンなしに食べていけるようになった。
源氏物語といった古典が普及したのも印刷文化のおかげだ。どんな境遇の人でも文学を勉強するチャンスができる。そうして裾野が広がったなかで出てきたのが小林一茶だ。
小林一茶は長野の田舎の人だ。母が亡くなり、父に新しい家族ができて江戸に追い出された。かつて、ふるさとの街道の村を訪れる文化人、旅の俳諧師の自由な生き方にあこがれた。彼は俳諧師になった。才能があった彼は、素晴らしい俳人たちに認められる。
しかしである。すぐれた彼らは富豪の子だったり、有力な武士の子だったりする。彼らのような文化的な人間関係もないし、句集を出す金もない。背景のない彼がなれたのは、小金持ちのご機嫌取りぐらいだ。旅の俳諧師なんてこんなものか。職人の延長だった浮世絵師ほどの変化はなかった。
しかし、彼らになくて彼にあるものがあった。それは貧しさや労働、大きな故郷の自然に身をさらしたといった経験による、生きている実感だ。
彼らの富や境遇に歯ぎしりした一茶は、自分の才能をたのみ、彼らのないものを求め、普通の人として詩人を貫こうと思った。違った俳句が読めるはずだ。
それで長野の故郷に帰った。この俳句はその時の歌だ。
おれはここを居場所にする。雪がとんでもないところだけど、まあいい。
帰ると、歌うことを支える財産を義母や弟と争った。天然痘で子供たちを亡くしても、ふつうの家族にこだわって何度も妻をめとる。村で農民を棄てた精神的なよそ者であると扱われていることに怒る。そして、ひねくれた自分をさらけ出した日記を残すのである。
しかし、苦労人で俳句には純粋な師匠の一面もあり、門人も多かった。普通の人として生き抜く糧としての俳句を教えたらしい。
死後に弟子が「おらが春」という詩文集を出版してくれた。50歳を過ぎて妻と子供を持つ喜びにうちふるえ、子を亡くす悲しみに身もだえ、村の信仰である浄土真宗の自己肯定の教えを信じようともがいた。それを描いた一年の俳句と文章がのこっていた。
名月や取ってくれよと泣く子かな
彼は生活の中に愛と美とユーモアを見出した。過去の教養がみんなの生活にしみこみ、前提になって、新しい詩が生まれていく。その歴史過程の人なんである。
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