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詩人の希望

悲歌

(エレジー)


濠端の柳にはや緑さしぐみ

雨靄につつまれて頰笑む空の下

 水ははつきりと たたずまひ

私のなかに悲歌をもとめる

すべての別離がさりげなく とりかはされ

すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ

祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ

透明のなかに 永遠のかなたに

原民喜は詩人としては原爆小景の数編が残っている。
水ヲクダサイというフレーズはどこかで聞いたことがある人も多いのだと思う。それとも、もうすたれてしまったかな。
彼がどういう人生を送ったか、ほとんどの人が知らない。彼はたまに教職につくぐらいでほぼ家にいた人だった。
作品を売り込むのも妻にすがってやっとだった人だった。
彼は原爆を描いたいくつかの小説と詩を残し、貧困と病気もあり書けなくなって死を選んだ。
これは、フランス留学中の遠藤周作と原が出会った女性にたくされた遺書のなかにあった詩だ。

たぶん、遠藤周作はこの気持ちを託されなかったら、小説家になっていなかったのではないかと思う。
彼は原の出身校である慶応の同人誌の後輩だった。
父に捨てられたひねくれた遠藤に対して父のように接していたらしい。
そして、もう一人の女性は彼の妻と同じ年ごろのころに出会って娘のように接していたらしい。

この詩の背景を知ったあと、私は中野翠の「あのころ、早稲田で」という本を読んだ。彼女の学生運動を背景にした青春時代を記した本だ。
そのなかに中野翠の高校時代の友人で学生運動にいち早く参加した少年の話が出てくる。
彼は子供のとき、文学仲間と貧乏共同生活をしていた原民喜と同じアパートに家族と共にいた。
彼は若くして二十代で自死を選んだ。
葬儀の席で彼女はそのことを聞き、本に記している。

原民喜は若いころ共産党に入り、戦争に向かう世の中に違和感を表明した人だった。
あまりに不器用で人と接することができず使い物にならなかったらしい。

原民喜には「永遠のみどり」という小説がある。
遠藤と女性との交流と「夏の花」の成功で広島のペンクラブに講演に呼ばれたときに懐かしい人たちの回復を見届けた思いを描いたものだ。
広島は緑に包まれていた。
この小説と対の詩「永遠のみどり」


永遠のみどり

ヒロシマのデルタに
若葉うづまけ

死と焔の記憶に
よき祈よ こもれ

とはのみどりを
とはのみどりを

ヒロシマのデルタに
青葉したたれ

この詩は原爆小景のラストを飾る一遍となっている。

無料サイト 青空文庫に彼の作品はあります。

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