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死と共に生き、そして生き抜く
年たけて また越ゆべしと 思ひきやいのちなりけり 小夜の中山
新古今和歌集
西行
白洲正子の本「西行」を手にとった。そのとき、平清盛と同じ時代を生きた歌人、西行が唯一歌論を語ったのは明恵だったと知った。
中学生のころ新聞で同じ年ごろで「心朽ちたり」と墓場で自殺をはかったお坊様を知った。私も性に目覚めてからどんどん自分がコントロールできない混沌にとまどっていたけど、昔から悩んでいる人がいるんだと初めて気が付いた。
河合隼雄の著書でそのお坊様が明恵と知った。明恵はかのストーカーの元祖とされる文覚の孫弟子で源平の戦いで心に傷を負った人々を助けた大した坊様だ。
その彼に、西行は出家しながら歌うことに執着する業に悩み、ついにはそれも自分なりに仏の道に通じると思うにいたったと語りながらも、和歌の才がある彼に仏道に精進するように諭した。
それから、西行に興味ができた。西行は息を吐くように歌が生む。
修行で行った大峰山で山伏に意地悪されたことを嘆き、反乱を起こした崇徳院の愚かさに対して怒り、木曽義仲の野蛮が大嫌いだったこと、女性たちへの愛情、和歌で人生記を綴った人だ。彼のその時置かれた感情が伝わる。かたわらにいる人のようだ。
「小夜の中山」を歌った、この和歌は何度目かの奥州に赴く途中に歌われた。ここを通ったときに、よくこれまで長く生きてきたなという気持ちを歌った。
そうなのだ。旅したところは2度と行かないことがほとんどだ。再び訪れることがあるとこれが最後かもと嬉しくも悲しくも思う。年を取るとしみてくる和歌だ。
夫に頼んで「小夜の中山」に連れて行ってもらった。歌碑のまわりには供養塔がごろごろとしている。江戸時代の浮世絵に描かれた、赤ん坊を抱いた幽霊の墓石とされる「子泣き石」が今も残る。元々、古代の先祖崇拝の聖地で東海道に組み入れられた場所であるらしい。今は険しくて意味がない場所なので産業道から外されている。
西行の行った道行をたどるとそういう場所が多い。鴫立沢と歌ったにちなんだ大磯の鴫立庵は崇拝者の土葬のお墓だらけだ。西行の仏門に入った妻子が住んでいた高野山下の丹生神社の辺りもお坊様の土葬だらけだ。彼は死とともに常にあるのだった。中世の僧侶、西行は未だ分からない。が、ひどく彼に心をひかれる。
旧東海道
ただただ、牧之原の茶畑が広がる
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