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塩パン

その存在に私が興味を抱いたのは、Instagramの一枚の写真だった。

現在は休刊している雑誌「Free&Easy」、その雑誌が休刊後に開始された「HailMary Magazine(ヘイルメリーマガジン)」の編集長である小野里稔氏のInstagramアカウント(hailmary_trading)があるのだが、今年(二〇二一年)の八月十三日に、福禄寿の奥山氏と小野里氏が立ち並ぶ投稿の三枚目の写真に、私の目は奪われた。

塩パン。

塩パンが一個、一枚の紙の上に、ちんまりと置かれている。
しかし、そのちんまりさを私は見ていると、徐々に威厳のようなものを感じてきた。
「PREMIUM 元祖 塩パン」という袋が、その塩パンの近くに置かれている。「元祖」という言葉が、おそらく私が塩パンに感じた威厳なのではないか。
そして、「明治おいしい牛乳」が、その袋の左隣に置かれている。
塩パンと牛乳の組み合わせに、私は魅せられた。

関西スーパーのパン屋にて
私の自宅付近にある関西スーパーには、食品売り場とは別に、ドラッグストア、コーヒー屋、花屋、そしてパン屋が併設されている。
この辺りは、他のスーパーマーケットも同じような店の組み合わせだ。私は、関西スーパーの食品売り場で会計を済ませて、パン屋に立ち寄ってみることにした。
私は夜の六時から七時までの間に買い物をすることが多いのだが、大体その時間帯は、特定の商品 -刺身、惣菜、パック入りの果物- が、二割から三割程度安くなっている。
その時間帯のパン屋は、閉店が近くなっているので、店員たちはその日、一日の仕事を終えたかのような疲労感を滲ませているので、私は少しだけ申し訳ない気持ちで、商品を眺めていた。
バケットは、その時間帯、ほとんど売り切れてしまっている。仮にそうでないとしたら、一本か二本ほど寂しそうにカゴに置かれていて、それらのバケットからは、売れ残り感が漂うので、私は買わないようにしている。
たまにその時間帯よりも早く訪れると、バケットたちはカゴにたくさん置かれていて、生き生きとしている。これらのバケットたちは、これから多くの人々によって買われて、様々な家庭の食卓に並ぶところを、私は想像する。
私はその様子を想像するだけで、結局、それらのバケットは買わない。二割から三割程度安くなっていないから。
私がそのスーパーマーケットに良く行く時間帯に戻るが、惣菜パンは、バケットと同じくほとんど売り切れだ。惣菜パンは、他のパンに比べると、賞味期限が近いから、パン屋の店員たちはそれを作る量を多くもなく、少なくもなく、丁度良い量を計算しているはずだ。
菓子パンは、ちらほらと置かれている。しかし、たくさん置かれてはいない。私は菓子パンがたくさん置かれているのを眺めるのが好きだ。
大体、表面がてりっと輝いているので、その輝きは宝石とまではいかないけれど、宝石に近い雰囲気を醸し出している。
これらは、二割から三割程度安くなっていないので、私はやはり買わない。
塩パンは、かなり高い確率で残っている。それは一個からでも買えるし、三個入り、五個入りの袋に入ったものを買うことができる。
塩パンは、他の種類のパンに比べると、おそらく日持ちが良いためか、割と多めに置かれている。
しかも、三個入りと五個入りの塩パンは、二割か三割程度安くなっていることが多い。

塩パン未経験
私はInstagramで魅了された、あの一枚の写真を思い出し、三個入りか五個入りのどちらを買うか迷う。
私は塩パンを食べたことがない。
二年前、私は趣味で東京は中央区、馬喰横山にあるパン屋でアルバイトをしていた。その時に、私は塩パンに挟まれた惣菜パンを食べるのが好きだった。
海外の映画かドラマを観ながら、無心に食べるのが好きだった。無心に食べていたので、「あ、これは塩パンらしいな」なんてことは、一度も考えていなかった。「ロールパンみたいなジャンルね」程度のほんの軽い気持ちで、私は塩パン惣菜パンを食べていたのだ。
つまり本当の意味で、私は塩パンを食べたことがない。
真正面から、しっかりと、背筋をピンと伸ばして、正しい気持ちで塩パンに向き合っていなかったのだ。
私は三個入りの塩パンを買おうと決意した。
五個入りの塩パンを買う勇気と決意は、私に無かった。五回塩パンを食べるということは、五回塩パンに向き合わないといけない。
三回なら、塩パンに向き合えるかもしれない。
私はそのような軽い気持ちと固い決意で、三個入りの塩パンを買った。
私の記憶が正しければ、その三個入りの塩パンは、二割引だった。

朝食の手順
三個の塩パン、チーズ、二個のゆで卵、オリーブオイル、ホットコーヒーが、翌日の私の朝食だった。
前日に買った塩パンは、「早く袋から開けて食べてよ!」と言わんばかりの元気な状態だ。いや、私がただ単純に腹が減っていただけなのかもしれない。
チーズは、同じく関西スーパーで売っている「ふぞろいのチーズ」だ。「ふぞろいのチーズ」、なんだか曲の名前にでもなりそうな気がして、私のお気に入りだ。
ゆで卵は、ゆで卵だ。それ以上でもそれ以下でもない。
オリーブオイルは私のお気に入りで、家にある大きめの皿 -カレー、ポトフ、シチューなどを冷蔵庫で保存できるような形- に、オリーブオイルを大量に入れ、そこに薄切りにしたニンニクを大量に入れ、バジルなどの香草をティーバッグに入れて、しらばくの間それらをつかせておいた特別仕様だ。
これは私の母から教わったのだが、私は大量に何かを作るのが好きなので、私なりにアレンジした。
このオリーブオイルはパスタにかけると、まるでペペロンチーノのような味がして、これはそれだけで味が成立してしまうし、サラダにかけても良いし、海鮮にも肉にもかけても、きっと何にかけても良い。
私はそのオリーブオイルをパンにつけて食べるのが一番好きだ。それを食べた後に、チーズを食べる。チーズの塩味が、オリーブオイルの滑らかな油に混ざり、ほのかにニンニクの香りが鼻の奥から感じられる。
次いでホットコーヒーを飲む。ホットコーヒーの苦味が、口にしている食べ物と絶妙に融合して、口の中で静かに溶けてゆく。
ゆで卵は、箸休めのような立ち位置で、途中に一個、そしてまた一個と食べてゆく。

違和感
早速、私はいつもと同じ手順で、パン、つまり塩パンをオリーブオイルにつけて口の中に放り込む。
塩パンのほんのりと効いた油に、オリーブオイルが追い討ちをかけるように主張してくる。
そして塩。塩、塩、塩。ニンニクよりも塩味が私の鼻の奥からわずかに香る。
ニンニクよりも塩味が、私の鼻の奥からわずかに香る。
なんだろう、この感じ。
なにかが、いつもと違う。
そのような疑問を感じつつ、私はいつもと同じ手順でチーズを口に放り込む。
私はある種の気まずさを感じる。
例えばトイレで用を足そうとして、ドアを開けたとする。すると、その先には先客が用を足している最中に不運にも遭遇してしまい、先客が慌てふためいていてドアを閉める。
もしくは、例えばデニムを試着しようとして、試着室のドアを開ける。すると、そのドアの先にはやはり先客が不運にもいて(デニムでなくても良いのだが何かを試着しようとしていて)、やはり先客が慌てふためいてドアを閉める。
つまり私が示唆したいのは、塩パンの塩味が、私の口の中に「先客」として既にいて、そこにチーズの塩味がさらに加わることに違和感を覚えるということだ。
私が先述した二つの例の場合だと、先客が後客を引き離すので、両客の空間は正常な状態に戻される。
しかし口の中は、そうは問屋が卸さない。
塩パンだけを吐くことも、チーズだけを吐くこともできない。
だって、もう噛んでるから。
その後、私はホットコーヒーを口に流し込む。幸いなことにそのホットコーヒーは、いつものホットコーヒーだ。私の期待通りの働きをしてくれる。
しばらく私は考える。
(何だろう、この感じ。)
別に不味いわけではない。かと言って、美味いわけでもない。
朝から深く考えるのも面倒になったので、とにかく私はいつもと同じ手順で食べ終える。
(もしかしたら、塩パンの個体差によるものなのか。)
私は仮説を実証してみようと思い付き、この日は違うパン屋で塩パンを買おうと計画した。

六甲本通商店街を、六甲道駅から六甲山方面に歩くと、その商店街の終わりには、左側にコープというスーパーマーケットがあり、右側にケルンというパン屋がある。ケルンは昭和二十一年創業のパン屋で、神戸の様々な街の中にある。
私はケルンで「げんこつ」というパンを二個買って、翌日の朝食にすることがよくある。「げんこつ」は名前の通り、パンの形がげんこつに似ているところから名付けられたと思われるパンなのだが、これは名前とは裏腹に、とてもやさしいパンだ。
「そのままでも、少し温めても、色んな食材に合う食事パンです。」
これが「げんこつ」の紹介文なのだが、まさしくその通りだ。
私はげんこつ二個を先述した食べ方で食べるのが好きだ。危うく「げんこつ」を二個買いそうになったのだが、私はそれを制して塩パンを探す。
ケルンの塩パンは、通常の塩パンよりも細長い。
「見た目はシンプルですが、身のもちもち感とクラフトのザクっと感が楽しく、沁みた底面のザクザク感が更に癖になります。」
これが塩パンの紹介文だ。とにかくザクザクしているところが、私が今朝食べた塩パンと違うのだろうと思い、私はその塩パンを二個買おうと思ったのだが、あいにくそれは一個しかなかったので、「ドイツ」というパンを私は以前から気になっていたので、それぞれ一個ずつ買った。
「水を使わず、牛乳だけで作ったリッチなパンで、独特の食感がある味わい深い一品です。」
これが「ドイツ」の紹介文なのだが、私は「水を使わず、牛乳だけで」という潔さに心を打たれた。

翌朝、私の目の前には塩パン、ドイツ、チーズ、二個のゆで卵、オリーブオイル、ホットコーヒーがある。
早速、私は塩パンを口にしてみる。なるほど、ザクザク、ザクザク、そして口の中に広がる塩味。
その後、その塩パンをオリーブオイルにつけて食べてみる。サクサク、サクサク、そして口の中に広がるニンニクとオリーブオイルと塩味。
ホットコーヒーは、どんな時でも美味しい。
もうこれ以上の塩味は要らないと、私の脳が指令を出しているので、私はチーズを食べないことにした。
昨日、私が食べた塩パンと比べると、今朝の塩パンはザクザク感が、ある種の高級感を与えてくれる印象を受ける。
それでもやはり、私は塩パンに対して違和感を覚えている。
(この違和感は、恐らく酢豚にパイナップル、生ハムにメロン説に近いかもしれない。)
歌人の穂村弘氏が「君がいない夜のごはん」という本で、「脳で食べる」という文章を書いている。
-生ハムとメロンという異質なもの同士の組み合わせが斬新というか高度すぎて、脳がついていけないのだ。-
私はこの文章を読んだ時に、合点がいった。
酢豚にパイナップルもそうだと私は思う。
でも、何回か回を重ねて食べることにより、それらの異質なもの同士の組み合わせに、自分の脳をついていかせることができる人々が多いのだろう。
私もそのうちの一人なので、塩とパン(異質かどうかは判断しかねるが)の組み合わせに、私の脳がついていけていないのだが、何回か塩パンを食べていくうちに、私の脳がついていけるのかもしれない。
私はこのような希望的観測に基づき、様々なパン屋で塩パンを買うようになった。

パンの街、神戸
「神戸はパン屋が多いのよ。」
結婚してから大阪住まいが長い私の叔母が、そう私に教えてくれたことを思い出した。
六甲道駅には、フォレスタ六甲、プリコ六甲道、ダイエー六甲道店(なぜかフォレスタ六甲だけ「道」がない)、三つのショッピングセンターがあり、日々、様々な人々で賑わっている。
フォレスタ六甲にパン屋はなく、プリコ六甲道には「デリフランス」、ダイエー六甲道店には「ボンテ」というパン屋がある。さらに六甲道駅の南には、六甲本通商店街とは別の「ケルン」がある。
他にも六甲道周辺を歩くと、「食パン専門店」を何軒か見かける。
確かに私の叔母の言う通りだ。
おそらく六甲道の住人たちの朝食は、高確率でパンではないか。
なぜ、神戸にパン屋が多いのかは私にわからないが、「デリフランス」と「ボンテ」で、私はそれぞれ塩パンを一個ずつ買った。
翌朝も、私は塩パンを食べる。
さすがに三日連続塩パンを食べると、もう何が何だか分からなくなってくる。
「デリフランス」と「ボンテ」には大変申し訳ないのだが、それぞれ塩パンを食べた時の感想が無い。
私の脳は、少しずつ塩パンについてきているのかもしれない。

潮パン
後日、私は愛知県は南知多にいた。
同県の幸田町に仕事でいたのだが、仕事のついでにと思い立ち、二四七番線を使い次の仕事場の三重県まで行こうと決めたのだ。
その前日は、南知多町の民宿に泊まったのだが、この日の朝食にと思い、スーパーマーケットで袋に入った三個の塩パンを買っておいた。
日が昇ってから、私は師崎湾をバイクで走り始めた。
この日は八月後半で快晴であったのだが、朝の気温と湿度はやや低く、早くも秋の訪れを感じることができる、そんな朝だった。
二四七番線は海沿いなのだが、師崎湾から走る風景は、優しさを感じさせてくれる。
もちろん海沿いなので、海特有の潮の香りがして、肌に触れる潮風は心地良いのだが、その類の優しさではない。
道路は片側一車線、信号はほとんど無く、周囲の建物は潮風の影響が見受けられ、バラックのような家々が立ち残る。
一見すると物悲しい風景ではあるのだが、この風景に朝日が当たり、海が近くなると、全く別の美しい風景になる。
朝日と海は、そういう意味で、私に優しさを感じさせてくれたのかもしれない。
その優しさに私は触れられて、野間崎灯台に立ち寄った。
ベンチは全て空いている。立ち寄ったというよりは空腹になったので、そのうちの一つのベンチで朝食を取ろうと思ったのだ。
袋に入った三個の塩パン、二個のゆで卵、オリーブオイル(携帯用)、冷たい缶コーヒー。
これが私の朝食で、ベンチに置いてある。
缶コーヒーのプルタブを開けると「プシュ」という小気味良い音がして、私は少しだけそれを飲む。
塩パンを袋から一個、取り出す。
少しだけ、オリーブオイルをその塩パンにかけて食べる。
次いで、ゆで卵を一個食べる。
コーヒーを一口飲む。
二個目の塩パンを食べる。
オリーブオイルは、もうかけない。
コーヒーを一口飲む。
二個目のゆで卵を食べる。
最後の塩パンを食べる。
コーヒーを一口飲む。

潮風の匂いが、私の体を優しく包んでくれる。

どうやら私の脳は、塩パンについてきたようだ。