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独学についての走り書き

はじめに

私にとって7月~11月というのは,本業の傍らで何かを独学する時期となっています.これは一種の趣味のようなもので,気づけば今年で7年目になります.

そしておのずと,この記事を書いている6月末は,自分の深層意識を掘り当てて,自分は真に何がしたいのかと計画を練り始める時期になるものです.

さて,現在せっかく独学のスタート地点に立っているわけですから,今回の記事では私が今までの失敗・成功で得た独学に関する月並みなあれこれを雑に振り返り,インターネットの海に放流してみたいと思います.

なお,これから書くことは私の管見によるものであり,心理学や教育工学などによる裏付けはまったく行われていないことをご容赦ください.この記事は,私のやり方に倣うよりも,ヒントにするために使うほうがずっといいことだと感じています.

また,私はこれからも絶えず学びを続けたい一方で,自分の学びのあり方を更新し続けたいと思っています.偉大なるインターネットの御力でいい方法いい知見に出会えれば僥倖ということで,まずはその土台となりうる自分の考えを差し出すことにします.


独学をするときに確保する3つのこと

私は独学をするときは,主に以下の3つを欠かさないように注意しています.逆に言えば,この3つを自力で揃えられない場合は独学を諦めることが多いです.

① どう学ぶべきかの指針
② アウトプットを披露できる場
③ フィードバックを得られる環境

これらはすなわち,その道の大学や専門学校に行けば享受できるものでありますが,一方で独学をするときは自ら設定しなければならないものだと考えています.

それでは早速,この3つを具体的に掘り下げていこうと思います.


①どう学ぶべきかの指針

独学において「自分がこの分野の何をどう学ぶべきなのか」を把握することは非常に大切で,最も骨が折れる作業だと思います.

大学・専門学校であれば,その分野に精通している方々が,学生の前提知識に合わせて指針・参考書籍などを用意してくれます.しかし,独学では,これを右も左も分からないうちから自分で模索し,柔軟にロードマップを切りひらかなければなりません.

私は昔,かなり大規模な学習計画を作っては,それを遂行できず挫折してきた経験があります.やはり,初学者が自分にぴったりの長期的な学習計画を自力で作るのは難しいです(いい方法があれば教えてください).そのため,私は学習計画を短期的に繰り返すようにしています.ここでの短期的というのは長くとも2週間を想定しています.

まずは中上級者が最初に何から学んできたかという轍を知る,体系的な情報に触れてざっくりと分野のイメージを掴む,あたりからスタートすることになるかと思います.学びを進めていくうちに,今後何を学ぶべきかを決定づける偶然的な出会いが発生するはずなので,それをもとにして芋づる式に次の計画を決めていきます.

さて,インターネットに資料を上げている身で言うのも何ですが,私は初学者であるうちは,無料のインターネットの情報より,有料の本の情報に重きを置いています.(※これはかなり分野によります.)

本のメリット
- 筆者だけでなく編集者や監修者など,複数人がファクトチェックしている
- 情報が断片的でなく体系的であり,学びたい分野に対する解像度を上げやすい
- 明らかな誤りがあったときのフォローが堅実である

インターネットにも上記を満たす情報はたくさんありますが,そうではない情報もたくさんあります.初学者のうちは玉か石かを見極めるために大きな労力が発生するため,私は最初から本を選択することが多いです.

基本,インターネットに資料を上げている人の中で,間違った情報を広めたいという人はいません.私を含め,どの方も界隈の発展に寄与したいという真摯な心で,気軽に誰もが有益な情報にアクセスできるよう力を注いでいるはずです.

一方で,実際に資料作成を経験すると身にしみて分かるのですが,どんなに気を回していても一人ではミスを見落してしまうことがあります.そうなると,正誤の分かる中上級者の方に指摘してもらわない限り誤りが放置されてしまいがちです.

そのため,インターネットを積極的に参考にするのは,本でそれなりの土台を作り,情報の正誤を噛み砕けるようになって以降にしています.(情報の正誤が見分けられない初学者のうちも,たとえば公式サイトの説明や,ac.jpリンクで出ている資料,「強い人たち」のうち複数人がオススメしているものは読んでいます.)

本は,正しさが100%保証されているわけではありませんが,誤りがあったときには改訂されたり正誤表が出たりするため,間違ったことを身に付けてしまうリスクは比較的低く保たれていると思います.(ちなみに私は同じトピックでも,似たような本を複数冊読むことが多いです.)

本の選び方についてですが,私は基本的に,まずは初心者向けや一般向けの本で分野のイメージを掴んでから,専門書で解像度を上げていくという手順を王道としています.
自分の体験から具体例を出すと,私が群論という数学の分野を勉強したとき,まず数学の一般向け書籍として有名な『数学ガールシリーズ』のガロア理論を読み,その次に入門書かつ専門書となる『代数学1 群論入門』という本を勉強しました.統計学を勉強したときはまず『マンガでわかる統計学 素朴な疑問からゆる~く解説』という本を読みました.人文学分野で原著が難しいと感じたときは『100分de名著シリーズ』などの概説書がありますので,まずはそれを手にとりました.

いきなり難しい本からチャレンジするやり方もありますが,根気が求められるので,単に挫折への近道になる可能性が高いと思います.私の周囲にいるIQ5億みたいな優秀な人たちも,やはり最初は自分になじみやすい本で基本知識を身に付けることが第一のようです.


ところで,「よい初心者向け・一般向けの本」を探すにあたって,amazonなどのレビューはとても大きなインパクトをもたらすものです.しかし,Twitterで書籍のレビューを流している身で言うのも何ですが,インターネット上のレビューはほどほどに参考にするくらいがちょうどよく,レビューだけで本を選択するのは避けた方がいいと考えています.本を読んだ感想というのは,本の内容だけでなく,読んだ人のバックグラウンドにも強く依存するためです.

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上の図は,私が思い描いている学習モデルのポンチ絵です.
まず,インプットしたものは海に投げ込まれます.この海には,その人が今まで経験して得てきたあらゆるものがカオスに混在しています.海に投げ込まれたものは,海の中で,意識の及ばないところで何かに結合します.必要があればこの化合物を自分のものとして引き上げて利用します.

投げたものが何に結合するかは海の養分によって違います.その本を読んで爆発的な化学反応を起こす人もいれば,ひとまずは海の養分になるだけで終わる人もいます.要するに,同じ本でも,何を学べるのかは人によって違うのが当然だということです.私も,何気ない本で一気に前進できた経験があると同時に,絶賛されている本がしっくりこなかった経験もあります.

一方で,ひどく否定的なレビューは,本を購入するときの躊躇いにつながりかねません.しかし,こうしたレビューを書く人の一部には,何でもいいからとにかく何かをこき下ろしてストレス発散をしたい,作者が日ごろから評価されているのが気にくわないから何かにつけこんで堂々と否定したい,何かを否定することによって自分が正しいのだという気持ちを保っている,などといった人も存在します.

こういった気持ちは,条件次第で誰もが陥りうる精神状態の局所解だと思います.この局所解を招く真の要因は,本の内容そのものではなく,その人を取り巻く社会的環境ではないでしょうか.問題は,そういった人が書いたレビューには,本の内容とは関係のない感情的なノイズが,表向きには本の批評を装って含まれているという事実です.

こういったケースがありますので,レビューをしている人のバックグラウンドを抜きにして評論を受け入れるのはリテラシー的によくありません.しかし,まったく見知らぬ人のバックグラウンドを見極めることに時間を使うのも,少し考えものです.そういう意味でも,レビューはそこそこに参考にして,試し読みで「はじめに」と「目次」に目を通したときの印象を決定打にする方がしっくりきています.


② アウトプットを披露できる場

何かを学ぶにおいて,アウトプットは間違いなく必須です.
アウトプットには,まず,学んだことを実践することで体に染み込ませる役割があります.しかし私がここで取り上げたいのは,理解・技術・発想などのレベルを自分の頭の外に出すという役割についてです.

たとえば,頭の中で思い浮かんだ偉大なアイデアは,いざ書き出してみると意外と大したことがない,というオチが多いです.そして,自らの打率の低さに少し落胆する一方で,なぜ大したことがないのかを考察してアイデアに肉付けしたり,別のアイデアを産み直したりすることになります.

しかし,アウトプットされないまま頭の中で眠っているアイデアはいつまでも偉大なアイデアのままで,そこに向上の余地があると気づくのは非常に難しいです.

このように,自分が今どれくらいの水準にいるか,自分がどんな風に頭を巡らせているか,これらはアウトプットしなければ正確に把握することはできません.

とはいえ,一人で黙々とアウトプットを続けるのは,精神的に大変です.アウトプットを促進させる方法として,披露する場を確保することは大切だと思います.
特にインターネットは披露の場として非常に強力です.無断転載や中傷,デジタルタトゥーといった負の側面もしっかり存在するため,インターネットがアウトプットにおける理想郷とまでは思いませんが,現状では最適だと認識しています.

成果が多くの目に晒されることに消極的な人もいるかと思います.私も,去年までは,独学のアウトプットを多くの人に見られるのは恐ろしいと感じていて,独学の成果は内輪だけにオフラインで見せていました.成果をインターネットに上げるようになったのは最近になってからですが,それでも完成からインターネットの公開まで1週間くらいかかってしまいがちです.

そんな仄暗い感情はあるものの,やはり理性的には,「多くの人が作品を見る可能性がある(もしくは相手にされない可能性がある)」という心持ちでいられる方がいいと判断しています.
好意的な関係の人だけに見せるつもりでいる場合とは取り組みの質が変わってきますし,一度成果を自分の手元から離してみることで改善点を反省しやすいと感じています.


③ フィードバックを得られる環境

昔の私は,独学というのは読んで字のごとく一人で粛々とやるもので,一人で考え詰め,一人で反省していくものだと思っていました.そもそも,学校などに通う場合と比べると,独学は他者からのフィードバックを受けられる機会が非常に少なくなります.

しかし,自分一人だけだけではどうしても視野が狭くなって,間違いやクセに気づけなかったり,あさっての方向に突き進んだりしてしまいます.それがひとたび身体に馴染んでしまえば,その後の苦労は計り知れません.だからこそ,自分以外の誰かからフィードバックを得られることには掛け値なしの価値があります.

フィードバックをもらう場合,私は自分より経験が深い人にお願いすることが多いです.そういった人は,自分にはない視点を既に得ています.新たな視点を学べると,次のインプットの方針を立てやすくなるはずです.

このとき,自分が頑固になっていないか,あるいは思考を相手に完全に任せてしまっていないか,両者のバランスに注意することは非常に大切だと思います.

また,フィードバックをお願いするときは,なるべく受け身一辺倒にならないようにするのがお互いにとって幸せだと感じます.
たとえば私は,去年イラストを勉強したときは,プロにお金を払って添削を依頼しました.また,絵が上手な友人と暗黙的に「知の贈与関係」を築き,私は顔の描き方や塗り方・アドバイスを教えてもらい,私も「私が得意かつ友人が必要としている分野」の勉強を惜しみなく手伝いました.

こうした経験で確信したことですが,フィードバックをお願いするということは突き詰めれば,相手が何度も試行錯誤して得た知的成果を,試行錯誤の苦労を抜きにして,おそろしく高い効率で教えてもらうことになってきます. 相手が積み重ねてきた労力に敬意を払うこと,決して都合のいい検索サイトとして利用したりフリーライドしたりしないこと……これらはきっと,他者に教えを乞うときに必須の心構えなのだと思います.


そのほかに独学で大切にしている考えを列挙してみる

(a) 分からない情報でもとりあえず目を通す
インプットのために色々と勉強していると,難しい本や資料に出会うことが多々あります.
もしその本を後で読み返したいと思えた場合,最初もひとまず一通り目を通し,「ついぞ理解はできなかったけど,まったくの初見ではなくなった」という状態にすることが大切だと思います.そうすると,いずれ適正レベルに達した自分が読み返したとき,一度目を通していた経験にかなり助けられるのを実感します.
理解できないものを読み続けるのは大変で,最初は投げ出したくなります.しかし,「以前は理解できなかったけど,気づけばすんなり理解できるようになった」という経験を何度か繰り返すと,分からないものに遭遇したときの折り合いのつけ方が体感的に分かってくる気がします.

(b) まずは学びよりも継続を目的にしてもよい
『継続は力なり.しかし手段と目的が逆転するのはよろしくない.継続そのものが目的になり,肝心の学びが二の次になるのはもったいない.』 
と,言われると,確かにその通りだと思うのですが,継続というのは最初から誰もができるものではなく,手段として用いるには高度だと思います.私は,継続した学びで成果を出すために,まずは継続の習得を目的にして,継続を手段として活用できる状態を目指しています
私としては「X日連続で勉強する」という目標よりも,「X日に1回のペースでアウトプットする.それを踏まえて勉強のスケジュールを調整する」という目標を立てる方が続けやすい気がします.多分,ゆるやかな〆切があるのがいいのだと思います.

(c) 進捗0を悪いことで済ませない
進捗が0である日はしばしば発生します.この事実を意識から葬りたくなるのをぐっと抑え,なぜ進捗が0だったのか理由を考えます.これは決して自責ではありません.ここで自分を責めても特にいいことはないと思っています.また,これは正当化でもありません.正当化は「できなかった自分」を受け入れるための一時的なメンタル処置であり,その場かぎりで終わる可能性が高いと思っています.
要するに,どういう日に自分は休むのかという客観的なバロメーターを見出すことが大切だと申し上げたいのです.たとえば私は,21時以降に研究室を出た日はもう体力が残っていないですし,台風が近づいている日も思うように調子が出ません.前者タイプは原因を回避できるよう努め,後者タイプは素直に休みます.
あまりよくないのは,「昨日は休んでしまった.一昨日も休んでしまった.やっぱり自分は何も継続できないダメなやつだな.もう止めるか」と,そのままフェードアウトしてしまうパターンだと思います.


(d) 継続とは,必ずしも毎日やることではない
これは(c)の補足のようなものですが,継続しようと努めると,毎日やらなければいけないという,ある種の強迫観念に駆られてしまうことがあります.継続は,始めたばかりの頃が一番挫折しやすいため,最初のうちはそれを活用してもいいと思います.しかし,「絶対に毎日続けるべき」という思いは挫折の伏線にもなりうる諸刃の剣です.
無理をして精神が疲弊してしまったら,リカバリーには非常に多くの時間がかかります.私は,「今日も継続日数を更新できるかどうか」ではなく「1か月後の自分が続けられているかどうか」を気にします.多少のグラデーションは気にせず,合間に休みを挟んででも,未来の自分が続けられている状態を目指す方がいいはずです.

(e) 始める時間と終わる時間は決めておく
みなさんも,何か新しいことを始めたいときは「空き時間ができたときに始めよう」と考えるのではないでしょうか.ここでいう空き時間は,物理的にも精神的にもゆとりのある時間のことだと思います.そうなると不思議なことに,空き時間は一向に現れません.「時間はあるけど,これは決して暇ではない」という状況はよくあると思います.空き時間は自分で作るのが手っとり早いです
このとき,「遅くともこの時間には終わる」というルールを決めるのも大切だと思います.気分が乗るといつまでも続けたくなってしまいます.去年までの私も,帰宅後に精進していたので,寝る時間をずらせば無尽蔵のように作業をすることができました.そうやって寝食を忘れ,よく午前5時に作業を終えて就寝し,午前8時に起きるなどして,ある種の自己満足に浸っていました.しかし,今では同じことをしようとする人がいればお節介であろうが絶対に止めると思います[なぜなら……]
時計を見て時間を把握するだけだと「うーん,もう少し先延ばしにしてもいいかな」という気持ちになりやすいので,アラームをつけて深層意識にことさら訴えかけています.

(f) 規則正しい生活を送る
(e)とも関連する話ですが,規則正しい生活を送ると,新しいことを始めるときに時間の割り振りがしやすいです.また,ランダムな生活を送るよりもコンディションを保ちやすいと感じています.
フィクションにおいて,科学者タイプや天才タイプのキャラクターは生活能力が低く描かれる印象があります.ある種のステレオタイプなのだと思いますが,生活習慣がぐちゃぐちゃでも圧倒的な進捗を生み続けられるのは,わりと真剣にフィクションだけではないかと,今の私は思います.(たしかに短期的に見ると成果を出せてしまうこともありますが,長期的に続けようとすると,いつか絶対に限界が来ます.)
とはいえ,いきなり24時間まるまると規則正しい生活を送るのは大変な作業です.私の場合は,まずは就寝前など一部の時間だけに着目しながら生活習慣を変えています.

(g) 最初のうちは勉強コストが高いことを理解する
何事も初期の労力が大きいのは仕方ない.それを理解して挑むと,少し気持ちが楽になります.
突然の話をすると,私の知り合いには筋肉隆々の人がいます.その人が「周りから見れば私はダンベルを軽々と持っているように見えるかもしれないが,もちろんそこに至るまでには多くのトレーニングを積んできたし,そもそも持てるからといって軽いと感じるわけではない」と言っていたことを,とても印象深く受け止めています.
これと同じで,どんなに頭がいい人でも,初見の学びではやっぱりそれなりの労力を払っているのだと思います.傍目だと楽々とやっているように見えるのは,「未知を受け止めるための筋肉」や「複雑なことも深く思考できる筋肉」などを,今までの努力や探究で発達させてきたからだと推測しています.
そうなると「あのときダラダラせず彼らのようにもっと努力していれば……」といった後ろめたい気持ちが顔を覗かせますが,上を見たらキリがないし,過去のことはどうしようもないので諦めます.能力を真面目に比較する相手は過去の自分くらいに留めて,粛々と今を頑張ることにしています.

(h) お金を遣った方が話が早いならお金で解決することを検討する
お金の遣い方は人それぞれですが,私の場合,「お金を遣った方が話が早いかどうか」というのは,かなり大きなものさしとして心の中に存在しています.
たまに「いかにお金をかけずに独学するか」というように,お金を遣わないことを美徳とするような主張を見かけますが,私は独学だからこそ然るべき外部リソースにはしっかりお金を払う方が,自分にとってプラスになると思います.(もちろん懐事情と兼ね合いながら.)

(i) 技術を上げるために勉強をする
楽器や絵など技術的な独学になると,練習で手を動かし続けるだけではダメなのか,何のために座学をするのかという問いが出てくるかもしれません.
技術の向上のためにはもちろん手を動かすことが前提になってきますが,上達というのは単に手捌きをよくするだけでなく,技術を支える「自分なりの理論世界」を作り上げることでもあると思います.
たとえばイラストは,デッサン的に自然な形を取れるようになるのは上達の一つの側面でしかありません.透視図法を用いた空間設計や,明度や彩度によるコントラスト設定,色彩バランス,描きたいものを伝えられる画面全体の情報デザイン,といった多次元的な知見が上達に効いてきます.
こういった知見は自力で見出せるものもありますが,どうせ手を動かして自分のものとして習得することに変わりはないのですから,先人が築き上げてくれた理論を先手で知るのも効果が高いと思います.
また,技術に自由を求めるためにも勉強は有効だと思います.「素人だから自由な(プロも驚嘆するような新しい)ものを出せる」というのは天文学的な確率の外れ値のような現象であって,むしろ,その分野の中身を知らない素人ほど既存の枠に収まってしまう可能性が高いです.経験的に,枠といっても中級者の枠に収まることはあまりなくて,「初心者にありがち」「人類はそれを数十年前に克服している」といった枠に収まります.枠から外れたいときは,まず枠が何たるかを知ることが必須だと思います.

(j) 議論とは自分の正しさの立証ではない
独学といえども他者とあれこれ議論することは大切だと思います.他者の考えを知ることで,自力では絶対気づけないことに気づいたり,自分が何を考えているかの言語化を促進させたりして,多角的な視点を形づくることができます.議論は学びを深める大きな手段だと言えます.
しかし昔の私は,議論というのは小学生のときに経験した討論の授業のごとく,自分が正しいことを何者かに支持してもらうための戦いだと思っていました.議論に”負ける”のは,すなわち支持されない考えを生み出した自分自身が否定されるに等しいと感じていました.
議論は凝り固まった思考をほぐしてくれます.殻に穴をあけて光を差し込ませてくれます.それなのに,相手を打ち負かすことが目的になってしまい,相手の主張の隙ばかりに気を取られ,自分の考えを何でもかんでも保守する姿勢になってしまっては,そこで生まれるのはせいぜい人間関係のヒビくらいで非常にもったいないです.
「意見に反対されるのは,決して攻撃されているわけではなく純粋に考え方が違うだけ.そもそも安易に賛同されているか反対されているかの二極化で捉えない.そして,円滑な議論のために,攻撃されたと受け取られかねない強い語調は徹底的に避ける」.この辺りが今の心構えになっています.


(k) 間違いを見つけたら本人に伝わる形で指摘する
だんだん分野の右左が分かってくると,情報の正誤を見分けられるようにもなってきます.
ところで,複数人でチェックしている本でも誤りが見逃されていることはあります.個人で作成した資料は言うに及ばず.のちに初学者が誤った情報に触れる可能性を考慮すると,誤りが放置されたままなのは界隈全体にとってマイナスだと感じるため,しっかり本人に伝えるようにします.
書籍であれば,出版社や作者の連絡先が書かれているためそこに連絡します.インターネットサイトであれば,コメント欄や作者の連絡先に連絡します.スクショ論破は本人に届かず誤りが修正されないままなので,避けた方がいいと思います.(万一届いたとしても,それはあまり幸せな結末ではないと思います.)
また,自分が情報を出す側になり,見落としていた誤りを指摘してもらえることもあります.
自分が誤りを指摘されるときに大切な心構えは,

・誤りを指摘されたからといって自分の存在を否定されているわけではない
・誤りを指摘されたからといってマウンティングをされているわけではない

・一部の誤りを指摘されたからといって全体に価値がないわけではない
・指摘されたらすみやかに対応し,修正した日付と内容をどこかに記す

あたりだと思います.
逆に言えば,相手の人格や尊厳を否定したり優位性をひけらかしたりする目的で誤りにつけ込むのは避けるべきですし,一部の側面だけを見て全体を決めつけない姿勢が大切です.
これを双方が認識し,情報を洗練していくのが界隈としても健全だと思います.
私が独学をできているのは,界隈の先輩の方々が情報を洗練して土壌を整えてくれているからに他なりません.だから私も,のちの初学者のために土壌づくりに貢献したいと思っています.


そんなこんなで雑に走り書きをしてみたら1万字を超えてきたので,この辺りで終わろうと思います.

それではまた.


謝辞

今回の記事では、塩野谷恭輔さんに公開前の日本語校正をお願いしました。お忙しい中,貴重な時間を割いて詳細に校正していただけたことについて,この場を借りて厚くお礼申します。


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