おばあちゃん

タイトルからすると一見ほっこり系かな?なんて思うかもしれないけど多分そうじゃない。

父方も母方も私から見て祖父母と呼べる人間は私が中学生になるまでで全員他界している。みな個性的で、良くも悪くもまあまあ記憶に残っている。

母方の母はマジモンのお嬢様で、おまけに末っ子だったからおっとりしている。女性の進学率が著しく低かった当時でも女学校に通い、嫁入りする時は嫁入り道具を百貨店から船で呼びつけ買い取ったと言う。(なんでも大きな事業をやっていたらしく、当時市内で最も大きい家に住んでいたらしい。のちに事業はダメになり家も引っ越し、普通レベルの暮らしに落ち着いたそう。数年前の母曰くその家自体はまだあると言う) 
その祖母と対照的に母方の祖父は厳しかった。私の知る頃にはすでにたたんでいたけれど、税理士を独立して営んでいて、姉曰く毎回通信簿を持ってこさせたくらい成績主義者だったらしい。姉は出来がよかった為気に入られていたし、私が物心つく頃にはそんな通信簿を持っていくようなこともなく、ハキハキと喋る爺さんだったということは憶えている。母は賢かったが母の弟は勉強があまり出来なかったらしく、けれどルックスが良くスポーツ万能で大学もスポーツで行っていたほどバレーボールに秀でていたそう。本当かどうかはわからないけど身長がもう少し高ければ日本のプロとして活躍してたかもしれないらしい。母曰く毎日弟(私から見ると叔父さん)目当てに家に女の子が数人来てたんだとか。その叔父さんが再婚して(一度婿入りしており、私の父が高校生くらいのときに幻の従兄妹がいるよと要らんことを教えてくれた、会ったことも見たこともないけど。そしてそのことをチクった父に母がそんなこと言わんでいい💢と怒っていたのを覚えている)、今でも私の唯一の従兄妹と呼べる存在が出来た。その上の子、私より一つ年下の男の子はどうやら叔父さんの血を濃く継いだらしく、勉強はからっきしだけどスポーツが出来て女の子にもよくモテた道を歩んできた、らしい。そんな彼に成績主義者の祖父が生前よく彼のことを怒っていたのを憶えている。余談だが祖母は59歳でくも膜下出血?だっけ、で亡くなっている。母は既に昨年64を迎えたけど、母がくも膜下出血で亡くなったら私も姉も同じ死に方をする可能性がある。ま、ぽっくり逝けるならいいんだけど。 どちらの祖父母の中でも最も早い死であった。記憶も、写真立てのなかで笑う祖母の方が強い。そして祖父もその十数年後に亡くなった。

父の父、私から見て祖父のことを私が物心ついて認識した頃にはすでに耄碌が始まっていて、私のことを私と認識出来ていたものの、数分後また話しかけると◯◯ちゃん、来てたの!と嬉しそうにはにかむ。基本的には無害で、よく笑う人だった。瓶ビールが好きで、ニカッと笑うと銀歯がキラリと顔を覗かせる、その顔が印象的だった。母の実家が名古屋であるのに対し父の実家は三重県の五ヶ所というところにあり、徒歩5分で海、みたいなところに家がある。それでかのちに祖父が元々真珠の養殖をしている漁師で、機械に巻き込まれて片足を失い、義足だったことを私は実際目の前にして初めて知ることとなる。漁師というとワイルドなイメージのある私は俄には信じられなかった話だ。その祖父はある日交通事故で亡くなった。よく晴れた日のこと、横断歩道で携帯を使用していた車に轢かれた。即死ではなく意識もあったというが、日に日に衰弱し、そのまま亡くなった。葬式の日、父が泣いていたのを初めて見た。悲しいというより、怒りに満ちた顔だった。自分の身内であることなのに、他人事みたいに、不条理に突然ぶち当たった遺族の眼をしているなと思った。父が泣いていたのを見たのは思うにこれが最初で最後だったように思う。

最後は、父方の母、祖母だ。
何故上記のようにつらつらと祖父母のことを書きあぐねたかと言えば、本当はこの人物について書きたかったからだ。父の妹、叔母さんには良くしてもらっているし、父や叔母さんの母親であるから悪く言いたくはないんだけれど、どうにも私はこの人間が苦手だった。調理師免許を持ち、現役の頃は旅館で調理師をやっていたというその祖母はとにかく口うるさかった。あとメッチャでしゃばってくる。田舎のなかの田舎であるからそういう風潮なのは仕方がないとはいえど、とにかくなんでもかんでも仕切りたがる。母親はだいぶこの人物に苦労していたようで、子供の頃は毎度夏休みや冬休みのたびに五ヶ所へ通っていた私たちに母は滅多についてこなかった。行きたがらない、と言う様子で、腰痛を理由に家で私たちの帰りを待っていた。体裁のためにごく稀に同行するくらいで、基本はいってらっしゃいと見送っていた。

私の母は私から見ても鋭いし賢いと思うのだけれど、その母が祖母のことを頭がキレる、と常々よく言っていた。確かに、溌剌として物をハキハキ言う。私が自分の思い通りにならなければ容赦なくシンプルに罵るし(ただし汚い言葉ではない)、いつも台所でテキパキと何やら調理をしていた。それで私たちは豪勢な食卓を囲む。海が近いだけあってほとんどが海鮮のもので、海鮮というと刺身などを想像するかもしれないが刺身メインというよりは藻類がメインだったように思う。当時は畑で栽培なんかもやってたから野菜も豊富に出てきたと記憶している。それはさながら田舎のご飯という感じで、もずくや煮物、何かよく分からない佃煮、何かよく分からない豆、何かよく分からない魚介類…などとにかく"何かよく分からないもの"が多く並んだ。私の母も沢山食卓に料理を並べる人だったけど、それに負けないくらいの品数が振る舞われ、絶対に食べきれんだろ!みたいな量が出てきた。中華料理かな??そういえば次の日もその次の日も…というかずっと同じ品がいくつかあった気もする。けれどそのどれよりも、私は朝ごはんに出てくる祖母の卵焼きが好きだった。うちの母は基本的には巻かない卵焼きを作る。リクエストをすれば渋々巻いてくれるが、基本はスクランブルエッグのような形態で、砂糖と醤油のシンプルな美味しい卵焼きだった。対して祖母の卵焼きは、その全てが完璧だった。綺麗に巻かれている見た目もさることながら、味が殺人的に美味い。祖母のことはあまり好きではなかったため、どうしてこの人からこんな美味しいものが編み出されるのだろう…と不思議に思ったほどだ。それくらい、その卵焼きは衝撃的な美味さだった。大抵のものはリクエストすればお店の味でも再現してしまう母もこの味だけはとうとう再現できなかった。祖父が亡くなってしばらくして祖母が亡くなった時、母親は正直ほっとした、と言っていた。ニュースで流れる凄惨な事件のその死をも自らのことのように胸を痛める母が、この人物が死んだ時だけはただただほっとして、肩の荷を下ろしていた。母は悲しまなかったし私もその気持ちはちょっと分かる、と子供ながらに少し思っていたけれど、それでも卵焼きのことを思うと惜しい人を亡くしたなと思う。卵料理がそこまで好きではない私にとって、卵焼きも例外ではなかったがあの卵焼きだけは本当に毎朝食べていたいと思える一品だ。スーパーでお菓子をカートいっぱい好きなだけ買ってくれたりなんてこともあって(あとで母親にメチャメチャ怒られた)、優しかった記憶もないことはないが、母の結婚式を勝手に取り持たれたり、母にしばらく子供が出来なかったことを色々言われたり、また遠回しに男児を期待されていたりしたことを聞いて、田舎に嫁いだ母は相当な苦労をしたのだと思う。これで父親が転勤族でなければおそらく結婚はしていなかっただろう。父の妹、叔母さんが独身なのも本当は婚約者がいたのに父が家を出て行ったことも手伝って祖母に止められたなんてこともうっすら聞いたりして、田舎のそういう思考は怖いと思ったりもした。

私が最後に五ヶ所へ訪れたのはいつだろう。高校生の時に一度かな。もうあまり憶えていないけど、お決まりの石蓴の入った味噌汁や庭で花火をしたこと、目の前の海へ船を出して釣りをしに沖まで行ったこと、その全てがもう過去のものと思うとなんだか儚い。今はどうなっているだろう。

あの卵焼きがどうしてもまた食べたい。

気ままにどうぞよろしくお願い致します。 本や思考に溶けますが。