以下、下書きとしてこのまま残しておくべきだったもの。

こんな生温い風が這う様な宵の口、嫌でもあの日もそうだったと思い出す。ムシムシとした夏の終わり、蝉も大半は死に絶えて少し静かになる。もう少し葉が色付けば、鈴虫でまた季節の風物詩が移ろう。風鈴ももう仕舞い時だと思ってから一週間は経つ。し損ねた花火は箪笥へ眠りにつき、日の目を見ることは今しばらくない。夏を何一つ消化しなかったくせに、一番あれが夏らしかったと今になって思う。

遠くで縁日と思われる光が賑やかに映る。音を感じながら、私はただ横を歩いていて、他人事のように通り過ぎる。川面に反射した、生まれたばかりの月を見やっては、行き交う人々の楽しさに溜息を吐いた。


浴衣の人を見るたびに、高校生の時分を思い出す。唯一私が着たいと言って着た、欲しいと言って買ってもらった浴衣。最後に袖を通した(というか祖父母の家で着させられた)のは幼稚園くらいなものだったから、当時私はすごくドキドキしていた。少しでも可愛いところをあの人に見てもらおうと、きっと私は必死だった。何せやっとあの親からもぎ取った終バスという門限だ。年に一度だけだからと後夜祭の日の西公園、門限を破って夜遅くまで親なしに外で遊べること、漫画の中では当たり前に用意されている 憧れていた異性との夏祭りデートというイベントごと、賑わう縁日の物珍しさで私は夢のようなひと時を過ごした。結果魔法のように素晴らしい日にもなって、それが呪いのように今の今まで忘れられない。

それが苦しいかどうかと問われれば別に苦しくない。遠い日の記憶、もうとっくに朧げで  私の中では何事もなかったのだと 綺麗に蓋をした。

ただ。ふ、とした瞬間に記憶はよみがえる。

何か特別なことならまだ良かった、特別だからこそと理由付けることが出来るから、それは仕方がないねと思えたはずだったのに、何でもない日にこれといった理由もなく思い出してしまう。

皆当たり前にそれぞれの将来を消化していっているのに、私だけがいつまでも上手く歩けない。あの頃は楽しかったと懐古に勤しむのは簡単だ。いつまでも過去にしがみつくのは当たり前にダサい。だから昇華したはずの記憶が息づく瞬間 ヒヤリとする。

私たちは良くも悪くも大人になってしまって、あの頃の純粋な気持ちとか、情熱や挑戦は引き際を覚え控えめに分を弁えた。要らない関係や余計な感情ばかりが増えて、憂鬱な気怠さは一向に減らない。


今年は何一つ夏を消化しなかった。それなのに、浴衣を着て顔を綻ばせながら向かう人、待ち合わせ場所で前髪を必死に直している人、帰りながら余韻に浸っている人、その全てがちゃんと夏を全うしていて、すぐ傍を歩いているのに勝手にそこから分断された気分になる。

そんな、寂寞の感に捕まった 夏の終わりの夏のお話。


気ままにどうぞよろしくお願い致します。 本や思考に溶けますが。