「日本国憲法」・「戦後レジーム」と"広末"に関する小論。

以前本欄で、広末について好意的に書いた。かつては彼女が出演する
「おくりびと」「鉄道員」などで、例え言葉は少なでも、表情で魅せる
演技が向いている女優であると言う評価は確立していたと思う。
逆に多くを語らないだけに彼女の考え方や演技観などが今一つ分か
らないというのが偽らざる感想である。

広末の世界観にうっすらと漂う思想、それも日本国憲法に由来していると思う。

家父長制を前提とした封建的社会制度が一旦崩壊した1945年以降、父権の失墜が盛んに議論されてきたにも関わらず、現代に至るまで、喪失を取り戻せておらず、戦後レジームが未だに継続しているのが現実である。

三島由紀夫や江藤淳ら保守がその欺瞞に気付きつつ、指一本触れられなかった日本国憲法。そのエッセンスは主に以下三点である。

1)人権のハイパーインフレ
2)平等思想
3)平和主義

思想信条は自由である。しかしながら、もちろん日本社会の社会的枠組みではそれが許されないのが今回の事例である。

「sio」の鳥羽シェフへの思いがハイパーインフレを起こした。そして限りない自由とは実は不自由なのである。それが今回の帰結である。原理的には広末も、キャンドルジュンも、鳥羽シェフもそれぞれ自由を有している。もちろん彼女のご子息らも同様である。しかし、西尾幹二氏が喝破しているように"自由"とは「物狂い」の思想である。

自由を保障した日本国憲法は、物狂いをも許容したのである。広末の過去の奇行の幾つかは「物狂い」の発露である。この意味における「自由」は過去にも、検討した。

広末が意識するしないに関わらず、戦後の憲法学が糊塗した事実、それは日本国憲法が無限とも言える権利を有している一方でその自由には「義務」が伴うと言う点である。無論、人間は所与のものとして、人間は平等に、自由と幸福を追求する権利がある。

日本国のシステム、日本国憲法にはどこか「自壊」「自爆」の遺伝子が仕掛けられているようにも思える。「自由」の追求の彼方にあるのは「破滅」にあるような気がする。それはまるで、ソ連が4か月で崩壊・瓦解したような。事務所設立以来、歴史上幾度もの告発にも微動だにしなかった〇ャ〇ーズ事務所の落日が、ジャニー喜多川亡き後、この短期間に一気に来たのも日本国憲法の保障する価値が存立する基盤の薄弱さを雄弁に物語っているようにも思える。

(生前のジャニー喜多川も自分の行動が、自身の築き上げた帝国を揺るがせ
ることになることを実は認識していたのではないだろうか。ここにも自壊の遺伝子を見て取れるが、また機会があれば稿を改めたい。)

今後の広末が目指す道はどこにあるのか、幾つかの有名人を参考にする。

左派的な思想をちらつかせつつ書評などのインテリ的な活動を軸に活動する"小泉今日子"路線。あるいは一切表舞台に出ず、数年に一度くらいのペースで、ホームページやツイッターを更新する"中森明菜"路線、あるいは過去の幻影を引きずりながら生きる"酒井法子"路線、あるいはほとぼりが冷めた時に洗いざらいすべてを告白する手記を幻冬舎からハードカバーで出版する、(男性だが)"郷ひろみ"路線…。

日本国憲法、並びに戦後レジームの際限の血脈が、今日の広末騒動を生んだとも言えよう。

以上。

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